ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

バランスの悪い欲望

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最近思うんですけど、楽して欲しいものがなんでも手に入ったら、それはそれであんまり楽しくないんじゃないかなとか。過程にこそ発見ってたくさん落ちているもので、結果より過程のほうが今となれば尊かったことって、人生を振り返ればけっこうあるなとか。

 自分の欲を抑えずに素直に認めた上で、そこに届いていない現状にネガティブにもならずに済む時、私はいちばん元気だ。

 

連休中はひたすら静かに家で過ごし、庭に出て瞑想してみたりして、毎日、魂とか人の心とか自己との対話とか、そういうことを考えていた。まぁあとの半分は近所のテイクアウトメニューについてとか新作コスメとかのことを考えていたんだけども。

ブログをなるべくたくさん書く予定だったけれど、満月あたりを境に猛然とインプットモードに突入してしまい、本を買い込んで来月のカード請求が心配なわけです。世間のおこもりモードに連動してAmazonの書籍が売り切れまくっているのが不幸中の幸っていうか、欲しい本全部買えてたらまじで破産したかもしれない。

絶盤で高値のついた遊郭本も買ったぜ。

 

これでも、執着や物欲は昨年よりずいぶん減っている。

私がかつて欲しかったものの多くは、今思うと無くても幸福に差し支えないものだった。

手に入れても使わないこともしょっちゅうあった。

欲しい欲しい思ってるときは、手に入れられないことが苦しいんだけど、欲しかった気持ちもいつか忘れてしまうことに気付いてからは、手に入れずに忘れるか、手に入れて忘れるかの違いでしかないようにも思えてきて、そうすると、今の「ほしい」も、8割が消えてなくなるのだった。それでもほしいものは手に入れればいい。心が喜ぶもの、持ち重りしないものだけを所有すればいい。

それでもたまに買い物をしすぎることはあるけど。

 

おもうに、「◯◯をやりたい」「◯◯がほしい」の奥底に、焦りとか罪悪感とか無力感とか無価値感があると苦しいと思う。

「やりたいことをやる」を考えるとき、そのやりたいこと、手に入れたいものが、そういう不足の気持ちから出てきたものでないかどうか点検してみるのは一考だ。ネガティブベースの欲求を、悪いとは思わないけれど、コストの割に実りがないかもしれないよ。それに、愛がないから、人を傷つけやすい。返り血で自分も傷つきやすい。

 

某ナイティナインの岡村隆史氏の女性蔑視発言をきっかけに、上記のようなことをちょっと考えたんだけども、彼に限らず女性をモノのよう捉えてる人って堂々とテレビに出てる芸能人にも普通にいるし、一般人でもいる。

 

私の実感だと、彼らは男社会で気持ちを挫かれているので(例え成功者であっても)卑屈さと尊大さが入り混じっていて、不安定だ。異性愛者である限り、下手したら普通の男たちよりも強く女性を求めているわりに、その「ほしい」の根底には苦しみがみえる。愛からでなく、自分の足りなさを埋め合わせるための恋愛や性愛関係。(男が肉体関係を求めるとき、そこにあるのは必ずしも性欲だけではない。もちろん、愛だけでもない)

自分の足りなさを埋める存在なので、女性を利用価値のみで測っていて、人間として見ていなかったりする。

だから、そういう相手とカップルになると、振り回されて心がげっそりと細ったかと思えば、根性据えてマウントを取ってみたところで、相手は無価値感を刺激されてさらにトラウマを深くし、自分も虚しい勝利感に浸れても幸せではない。はて、恋愛とは?みたいな不毛の境地。

 

相手は鏡なのだ。相手に愛がないならこちらにもないわけで。

 

というところで、話が逸れに逸れたけども、自分が自分をどう扱っているか、愛を持って大切にしているか、欠落した存在だとみなして冷たく厳しく接しているか、というところが「欲」の在り方にかなり反映されるんだと、そういうことを思ったのだった。

 

私はすでに幸せに生きるためのものを持っていると思うか、全然まだまだ不足していると思うか。

自分がいま何を持っていると認識しているかによって、次に欲しいものが変わるということだね。

 

何をどれだけ所有していれば正解かという真理はない。

あくまで「勝手に足りない気がして、勝手に求めている」ということ。

案外、それに気づくことが、欲のバランスをとるための出発点な気がする。

 

 

 

 

 

 

どーしても怖い!!!

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理性を一瞬でブチ破って恐怖心を着火させるあいつらは一体なんなのか………!!!

 

 

ひさびさに近所のカレー屋に行った。

自粛中で、空いてるし、ちょっと身体が弱っていてスパイスを欲していたので。

奥のソファ席で食べていたら、視界の端に黒い影が見えた気がして、ふと視線を落とすと、なんと私の真横に特大クラスのGがカサカサ登ってきたとこだった。両者目が合う。

 

ぅぎゃはaw€2ほぁおおおおお!!!!!!!

みたいな声にならない悲鳴を上げて逃げ惑う私。

慌てふためく店員さん。呆れる夫。周囲の白い目。

結果、店中の店員さんがゴキジェット片手に集合して、壁に掛かった額まで外す大捜索が行われ、私たちは離れた席に避難させてもらって仕切り直したものの、あまりの鮮烈な恐怖にカレーの味なんかわかったもんじゃないっていうね。

 

私だってね、人前で大騒ぎなんてしたくないわけです。

ダンス教室で足の裏にガラス片が刺さっても我慢して最後までレッスンをやりきるくらい、そういう場での忍耐力はある方だと思う。

そして、Gだって生きるのに必死であり、隠れているだけでどこの飲食店にもGの1匹や50匹はいるだろうと思ってるから、店の衛生管理がなってないとかそういうことを言いたいわけでもない。

店長が何回も謝って、チャイのサービスをしてくれたが、店が悪いとは思ってないからね。ふつうの、きちんとしたインド料理屋なのだ。

(ちなみに、新宿の飲み屋ではたまにドブネズミを見る←どんな店に行っとんねん)

 

ただ、そういう理性という理性を一瞬で吹っ飛ばすほどの恐怖を与えるのがあんな小さい生き物っていうのは一体どういうことなんだろうな!?

コロにゃんよりゴキにゃんが怖いって一体どういうこと!?

恐怖の瞬発力っていうんですかね。

たとえば、スピ・メンタル系統にどっぷりな昨今、お馴染みの「恐怖心」っていうのは、自己対話を通してだとか、何かの出来事をきっかけに浮上するような、重いものなわけです。しかも、他人への攻撃性に変換したり、心のトリックを生むだけの複雑さがある。

とっさに逃げ惑うことしかできない怖さっていうのは、命の危機にたいする本能的な反応に近い気がしたんだけど、それがただの虫って?刺されて死ぬわけでもないのに!

世の中には、爬虫類が怖くて見るのも嫌って人もいるけど、G派も一定数おり、平和な日常に潜む瞬間的恐怖の二大勢力って気がする。

そんなこんなで恐怖についての探究心がむくむくと湧いてきた。しかし「ゴキブリが怖い」を紐解いた文献はこの世にあるのか。

 

ちなみに、Gを引き寄せ的に言うと、昨日風呂に入ってないからかな。(普通にそれじゃね!?)

 

 

 

 

 

 

条件を満たせば幸せになれる?※修正版

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つくづく、女のただひとつの望みは、愛されることだ。愛を通して、私がここにいていい理由を見つけて、その手触りに幸せを実感することだ。
私自身がそうだったから、とってもよくわかる。
見た目を磨くのも、仕事をがんばるのも、なんなら夢を叶えるのも、時に愛されたいって願望がベースにある。それは、異性からの愛を介すことも多いけど、突き詰めれば自分から自分への愛だと思う。


「モデルの◯◯ちゃんみたいに綺麗だったらいいのに」なんてことを、一度くらいは夢見たことがあるでしょう。それは、不特定多数にチヤホヤされたいとか、美の頂点に立ってみんなの憧れの的になりたいってことが最終目的じゃなくて、完璧な美しさを手にしたら今よりも多くの人が私を認めて愛してくれるだろうし、そうすれば自分のことも好きになれて、人生における苦しみの多くは解消してしまうのに!ってことだったりする。

女にとって、愛を得られないことは、自分自身をまるごと失ってしまうくらいに苦しい。

 


話は変わって、
いま付き合っている彼との将来を考えたとき、
愛着も愛情もあるけれど実質的な面での頼りがいに不安があるな、なんて悩むことは、よくある話。恋愛と結婚は違うから、視点も違ってくるのは当然で、そもそも恋と愛を混同してはならない。

恋愛感情なんて、長い結婚生活の1合目にも達しない時点で冷めるのだから、そのあとの長い道のりを仲良くやっていけるか視野に入れるのは賢明なことだ。

 

だけど、相性ではなくて、相手に多くの社会的条件を求めているとすれば、自分をそれだけ多くの条件で縛っていると考えて、いちど足元を見直してみた方が良いかもしれない。

よく聞くのが年収とか学歴とか勤め先とか。結婚するなら公務員(!)とかね。←私の知り合いが実際に言ってた。


それってつまり、お金があれば、高い学歴があれば、良い会社に勤めていれば、私の人生はもっと思い通りになるのに!という思い込みに囚われている、ということかもしれないのだ。そして重要なのが、そもそも私の人生が自由じゃないという前提に立っているということ。

その思い込みって、刷り込みによる幻想でもあるんだけれど、時にものすごく手強いものだっだりする。

 

私たちの世代(もしくはそれ以上)でね、
「人間は金じゃない、学歴も容姿も関係ない、心の豊かさがすべてなのだから、あなたはあなたらしく伸び伸びと自由に生きなさい」
と教育されて大人になった人間なんてほぼいないんじゃないかな。


学校では、人を見た目で判断してはいけません、人はみんな平等です、とか道徳の授業で習うけども、
実際にはおかしな奴とは友達になるなって保護者の教えの方が身近だったように、
なんていうかウワベは「愛」をベースに物事を語っても、大人たちの本音は「分離」だから、すべての教育が「分離」に倣ってできている。少なくとも今の大人たちが子供の頃はそうだった。共存よりも競争。希望よりも可能性。さらに私たちの世代は、就職氷河期とかって、分離感極まるシビアな学生時代を過ごしたしね。

 


そんなこんなで、「分離」の感覚(というのは、恐れからくる比較や損得勘定や、劣等感、軽蔑、優越感、無価値感、孤独など)にまみれていると、
他人以前に自分自身を信用できなくなる。
エネルギーが下がってしまって、自分の力強さ、頼もしさ、そして自由を信用できなくなる。
そして、内なる力を忘れた分、外から補給したくなる。他者は自分から奪うものか、もしくは与えてくれるもの。という利害ベースの見方になって、共に歩む存在なのだという一体感を失ってしまうのだと思う。


恋人や結婚相手に、たくさんの条件を課して、どれだけ与えてくれるかで相手を選ぶというのは、そういうところから来ているように思える。

しかし、その反対の、相手がなんにもしてくれなくても一方的にジャブジャブと愛を注ぐスタイルの恋愛もまた、無価値感がベースになっていたりする。

ほとんどの場合、女子にとってそれは「無条件の愛」という名の先行投資に他ならず、最終的にはちゃんと愛されたいと思っているので。

(「見返りなんて求めるな、それは愛じゃない」なんつって言ってるのってだいたい男の人ですよね?男は女より与えることが性に合ってるので、それでもある意味幸せなんだけどさ)

 

ちゃんと愛されたい気持ちは、健全に機能するとき、ちゃんと相手を愛したい気持ちとセットになっていると思う。

一方的に奪うのでも与えるのでもなくて、(ミスチルの歌詞みたいになってきた)時に反発をしながらも、歩み寄って、違う性質を持った生き物として融合を目指すもの。

 

恋愛の本質として、自分に無いものを相手に求めるってのは確かにある。まず性的にそうだし、人間的な、性格とか資質とかも。

でも、そういう自分に「無いもの」を肯定的に捉えているか否定的に捉えているか。足りない部分も含めた自分をとりあえずオッケーとして認めているか、足りない自分には価値がないと思い込んで、足りた誰かになろうとしているか。

要するに、「自分おっけー」の土台が固まっているかどうかで、恋愛やパートナーシップの豊かさは大きく変わるんじゃないかと思うわけです。

どうも「条件」っていうのは、「自分だめ」の意識から出ることが多いんじゃないか。

 

自分を信じることと、自分の弱点を許すことは、真逆のようでいて同じだから、
自分が自分を信じ、すべてを許していると、人の弱さも許せるようになるんですよねきっと。

そういう自分と他者への寛容さが、愛に恵まれた人には必ず備わっている。

立派な人や優れた人を目指すのでなく、まず無条件の愛を自分に与えることで、同じものが外からもやってくるようにできている。


私はいつだって自由で、
そして自分自身を生きていて良いのだ。
という絶対的な自分への信頼がすべての女性に備わればいいですね。
これからたくさん恋をする女の子にも、
結婚に迷ってる誰かにも、
子育て中のお母さんにも、
自己犠牲のなかで自分を見失いかけている女性にも、そして私にも。

 

 

 

 

 

「イタい人」は自分の鏡かもね

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人のブログを読んでいたら、「いつも人を見下す彼氏と付き合っているが、どうしたらいいか」という人生相談が目に止まった。

曰く、その彼は、政治的にもモラル的にも偏った思想を持っていて、常に自分が正しいかのように発言し、周囲の人々や組織をとにかく馬鹿にすると。職場の人のこともみんな馬鹿扱いしていて、それで彼女が読書を勧めたら、作家もみんな自分より馬鹿だから読まないと言って一切受け付けないそうだ。そんな男との今後をどうしようかっていう相談だった。

将来云々以前に、いま現在彼女がモラハラを受けて心を削られていないかということに私の心配は及んだけれど、それに対する言及はなかった。

「イタい男だな」

というのが、その男に対して最初に持った私の感想だ。

自分のことを自分で認めてあげるという発想がたぶんこれっぽっちもなくて(そういう風に教育されたのかも)、要は自信がなくて、人から見てスゴイ人になって自分を証明したかったんだろうけど、現実の自己評価と人からの評価の間にあるギャップを受け入れることができずに、世間への恨みを内側に溜めているふうに感じたからだ。人に自分を認めさせたくて仕方がないけれど、望んだほどには叶わないから、相手を見下げることでほんのひととき溜飲をさげている。

無駄に目線が高い人というのは、自分への愛に溺れているわけではなくて、愛が欲しくて悲鳴をあげているのだと思う。でも、愛が欲しくて悲鳴をあげるというのも、また自分への愛、生きてゆく希望を捨てていないから出てくる苦しみなのだ。

 

ところで、「イタい」の主語ってなんでしょう。

自分が痛いのか、相手が痛そうに見えるのか。私は前者だと思う。

相手が痛そうに見えるのは、可哀想とか哀れとか痛々しいっていう表現になるはずで、もっといえば「痛々しい」と「イタい」のニュアンスの違い。痛々しいには純粋な憐憫があるけれど、イタいには軽蔑がある。

自分の押し隠したい部分を晒している人を見たとき、人は「イタい」と感じるのではないかと思った。自分にフィードバックされるからこそ、哀れみでなく、より強い「軽蔑」という感情になって現れる。その嫌悪の強さはたぶん「こうなりたくない/いつかなるかもしれない」っていう恐れからくるものだ。

 

私が冒頭の男を「イタい野郎だな」と思ったのは、私にも、人から認められたい、私を理解しない人間を見下したいという気持ちがどこかにあるからに他ならない。

彼の心の動きを想像できるのも、自分の心に手を突っ込むからなわけです。たとえ相手がどんな鬼畜野郎であろうとも、意味はわかる、どこかで共鳴できるということは、深い部分で相手と自分に似た要素を見出しているということ。他者は他者であると同時に、ある部分では自分自身でもあるのね。だから自分を嫌わないことが、人に想像力をもつということに繋がるのね。

 

「イタい」に関して余談なんだけど、女性誌やWEBの記事で、「合コンでイタいと思われるメイク5パターン」とか、「結婚は勘弁!イタい彼女の特徴10」とか、「後輩男子からイタいおばさん認定される着こなし」みたいな煽り記事を一時期そこらじゅうで見かけた。最近はやや落ち着いてきてるようにも見えるけど、今でもたまに見かける。正直、そのセンスにこそ流行遅れ感が漂っているんだけれども。

人間、ポジティブな情報よりネガティブな情報に目が行くらしいし、とくに集団意識の強い日本人にとって「イタい人」=「あなたは人から蔑まれ、コミュニティから疎外され、愛を貰えなくなる危険性があります」というメッセージは、PV数を稼ぐためにこの上ないパワーワードになるんだろう。

しかもそれが一番刺さるのが、自由より協調を叩き込まれながら「自分らしさ」にも執着があり、社会的にボロを出せない責任感世代にある私たちなんじゃないかと勝手に想像してる。板挟み世代なのだ。なんだかんだで私もよくページを開いてしまい、振り回されたものだ。

 

でも最近の良い兆候として、大多数と違う生き方とかセンスを持っていても、疎外されずに、居場所を保ち続ける流れができはじめたように感じる。っていうかその「大多数」というのがあらゆる軸においてゆるやかに崩壊してきつつあるというか。

こういうのは若い人たちをみていたらとくに思う。「若い子の考えることは理解できんわ」なんつって先輩風を吹かせつつも、ほんとうはいいなぁと思う。

上の世代が押し付けてくる「お荷物」を軽やかにスルーしながら、新しい機軸をうちたててゆく彼らをみているのは痛快だ。(私の世代は、そのお荷物をガン無視することができずに、渋々引き継いだ節がある。だから迷いがあるのだ)

そうして、私も愛を持って、自分にも人にも光を見出しながら軽やかにやってゆきたい。

そしてなるべくいろんなジャッジを捨ててゆけたら。

 

 

感情の責任

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べつに自分が悪いわけじゃないのに、口癖のように謝罪の言葉を添えてしまうのは私の癖だ。

できればやめたいなと最近おもうようになった。

 

会社の人に遠慮して、ほんとはちょっと嫌でも「大丈夫だよ」と反射的に言ってしまうのも、後味がわるい。

スムーズな進行のために譲れるところを譲ろうという気持ちからでなく、自分を守るために咄嗟に出た言葉だというのがわかるから。

 

それは母親の感情に非常に引きずられてしまうことと強く関係している。

母がネガティブ感情を口に出すと、私はそれ以上に辛くなる。何かやりたいことがあっても、母が難色を示すと、実行するのが苦しくなって、途中で折れるか、逃げるように母をシャットアウトする。私の大事な人やもののことを悪く言われると、自分が引き裂かれるように苦しい。いちばん、他人事として切り離せない相手が母なのだった。

最近あんま会わないし、実家に帰ればお客さんだし、感情がすれ違う機会もないから忘れてたんだけど、この点に関してまだ克服ができていないことに気がついた。

 

そのことを母は知らないだろう。

(そして私も私で、母の葛藤を正確に知ることはできない)

以前の母は、私や父に、歪んだ自己解釈の果ての被害者感情をよく投げつけた。それは、人の言葉や行動の裏の裏を読んで生まれた「解釈」なのだけれど、彼女にとって人の言葉はどう読んでもだいたいネガティブに行き着くらしかった。人の悪口もよく言うタイプだった。

家族のために尽くしているのに報われないという態度をあらわにされると、家族はみんな自分が悪いような気がして母に何も言えなくなるのだった。

 

人をいちいち疑ってかかるのは心のある部分を守るために猜疑心で自分を包んでいる。

自分は人生で割りを食っていて、どうせ人の厚意なんて受け取れないのだと、母は心の底では思っていたのだと思う。自分を木に括り付けて、誰かが運んでくるかもしれない幸せを夢見ていたのだと思う。

まるで家の周りを巨大なガラクタで囲うようにして、心の見たくない部分を守るために不自由さで武装してしまうことが人間にはある。

いまは育児の責任を終えて子供たちが家を出たことで、前よりも自分と向き合ったんじゃないかという気がしているけど。

 

私が大人になったいまでも、人の言うことに逆らうのが難しいのは、母に同化して生きてきた20何年かの名残だ。

家族っていうのは多かれ少なかれ、人生の長いスパンで影響を及ぼし合う無意識で繋がれた共同体だ。だから、ネガティブに見える影響そのものを完全にクリアにすることは現実的じゃない。ちょっとくらいは親の目を気にしていたっていいんだとおもう。誰かを悲しませたくないと思うのは愛だから、誰がどれだけ泣こうが、どれだけ憎まれようがどこ吹く風で、徹底した我儘を貫きたいと思っているわけじゃない。

 

だけど、自分の感情も人生もあくまで自分のものであり、やはり自分の幸せは自分を裸にしてよく見つめたところにある。その作業は自分にしかできない。

 

ほんとうは、たいして悪くないのに謝って自分を守らなくても私の価値が傷つくことはない。

嫌なものは嫌だと、可能な範囲で主張すればいい。心の中で多少舌打ちされようが、そんなものはお互い様なのだ。

 

従順であることが人の価値を決めるように、「いい子/悪い子」っていうのは保護者にとっての「都合がいい子」「都合が悪い子」をオブラートに包んだ観念だ。

そのジャッジでコントロールされて大人になった私たちは、子供の世界の不文律をいまも少し引きずって生きている。

うちは母子の繋がりがわりと強かったから、引きずり方も根深いのかもしれない。

 

そういうわけで、自分を守る残りの鎧を脱いでゆこうと思った長期休暇の初日。

 

土地の波動について。

 

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(この写真は、実家の父が趣味で撮った。台風の日に母の制止も聞かず一人で海辺へ出かけ、眼鏡を吹っ飛ばしながら命からがら撮影した狂気の一枚です。私は父の写真のファンである)

 

 

もうコロナネタ一切関係なくきょうはスピリチュアル・サイキックのお気楽な話。

私そんなにバチバチの霊感体質ではないからライトな話だ。強いて分別するなら、見えたり聞こえたりっていうより感じるタイプ。直感で感じることと、体で感じることがある。そのふたつは感じ方がちがう。外れることもあるし当たることもある。

 

昔から、モノや土地の念を強く感じるタイプだった。

シンクロという言葉を知る前からシンクロはかなり頻繁にあったので、これはなんという現象なのだろう?と、子供心に思っていたんだけど、大人になるにつれ一旦落ち着いて、そして最近また復活してきた。

 

じつは、土地や場所の波動に関しては、zoom飲み会で小一時間語れるくらい言いたいことがあるぜ。マイナーネタなのであんまり話す相手がいないのです。

 

たとえば神社とかって他の場所と波動が違うのは当たり前なのでそこまでテンションが上がらなくて(神社は好きだけど)繁華街なんかの意外な場所で怪オーラ(?)をキャッチすることに喜びを覚えるタイプだ。変態かな。

 

いま、新宿における性産業の土地の歴史についての本を読んでいるんだけど、やっぱり!というか、私の通ってるダンス教室の立地は、かつての遊郭の入り口あたりにあるのだった。どうりで匂うと思ったぜ。あの土地は。(何なんだよ)

新宿遊郭の存在については、なんとなく街全体が「無かったこと」にしようとしているものらしい。で、執念で古地図を集めて明らかにした人がいる。

似た匂いは、新宿二丁目でより濃くなる。夜はゲイカルチャーで賑やかになる場所だけど、ここはかつて新宿遊郭の一角だった。堆積した、表現できない陰りがある。それが二丁目ではグラデーションになってる。

三丁目になるとちょっと開放的というかロマンティックで芳しい文化のかおり。駅周辺はお気楽な欲望が立ち込めており、歌舞伎町はよりエッジィで殺伐としたエネルギーに満ちている(いちばん緊張するのは歌舞伎町だ。でも広いから場所ごとに違う)。西新宿は透明かな。美味いラーメン屋がある(もはや波動関係ない件)

もっと区画ごとで細かくあるけど、ざっくり言ってもこんなにいろいろ波動がちがう。汚くても新宿は好きなんだな。あの街は私に似ている。

 

赤坂、銀座、神楽坂あたりは、上等な土地だけど、なんとなく全体的に仄暗さを感じる。それでも嫌いな暗さじゃない。

反対に苦手なのは六本木。六本木を歩くと、なぜか「嘘」という言葉が必ず浮かぶ。調和が取れていなくて、なんていうか愛がない。かと言ってストレートなエネルギーも見えない。重いのに軽薄。それで苦手だ。

 

ゾワゾワと気持ち悪いのは池袋。とくに北口のトンネルみたいな出口を出たところがだめだ。あの場所にはいても立ってもいられない。こそから風俗街に向かうエリアはゾワゾワが止まらない。重くて暗い霧がじわじわと体を包んで押しつぶされそうになる。サンシャイン近辺もやばい。ていうか、サンシャインは怖い。サンシャインは怖いぞ!(2回言った)

 

謎に波動が高いと思ってるのが、渋谷駅の京王線に向かう連絡通路である。

岡本太郎の壁画があるあの通路。あそこ神でもいるんかな?渋谷なのに綺麗なエネルギーの川が流れてる。太郎の絵の波動が強いのかな?これは個人的に東京七不思議のひとつなんですけどね。

「東京 パワースポット」で調べても出てこないけど、個人的にはその辺の神社以上のパワースポットだと思ってる。太郎のパワーか、やはり。そもそも、波動の高い場所にあの絵を設置したのか、絵を設置したから波動が高くなったのか。最初から波動が高いんだとしたら、それはどうしてか。それとも、エネルギーを浄化するために設置したのか。土地の歴史って面白いよね。もちろん、他の人は何も感じてないのかもしれないけど。。

 

ちなみに、アートでも真っ直ぐに力強くて気持ちいい波動と、おそらく作り手の執念というか欲が強くて、もしくは自己分裂をした人の作品なのか、波動が重くてギザギザで鑑賞して疲れるアートと両方ある。

美術館の展示によっては、ものすごくエネルギーチャージされるときと、ぐったり疲れるときと、両方ある。

 

土地の嫌な波動を感じるとき、肌感覚といつも表現していたんだけど、正確にはちょっと違うんだよなと思っていて、歌舞伎町のダークゾーンを歩いたとき検証したら、鼻の奥だなと思った。「鼻が利く」とか、嗅覚の話じゃなくて、勘の良さを例えて言ったりするでしょ。むかしの人はよく言ったもんだなと思いました。

 

おわり。

 

 

 

 

 

 

 

 

「先が見えない」は当たり前のことだった。

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先が見えない不安、見通しの立たない不安に駆られている人がいま多いんじゃないかと思うけど。

明日のことはわからないのは当たり前のことであって、わかったつもりになっているということそのものが、本質から離れた状態なのかもしれないね。

「わからない」ことは不安だ。

だから、人間だれしも、不安を感じないように、わかったふりをしている。心の動きがそのようにシステムされているので、仕方がない。

でもここへ来て、パンドラの箱をひっくり返されて、「わからないという真実」があらわになった。

それって希望じゃないですか?「自分をちゃんと見て」「当たり前を疑って」と、言われているんだなと私は受け取ったので。

 

コロナ騒動が終わっても、劇的に、別物みたいに、たとえば夜が昼になるように、ニューデリーがニューヨークになるように世界は変わったりしないのかもしれない。でもきっと確実に、ビフォアフターの差は出てくる。後世で歴史的、社会的、文化的分岐点として論じられるような、象徴的な出来事として。世界のニュアンスが変わる。それは、個人個人が変わるということで。

世間的にネガティブなことが、スピリチュアルでもネガティブなことなのかと言ったらそんなことはまったくないのね。

 

不謹慎ついでに言うと、5年ほど前に祖父が亡くなったのだけれど。

祖父の死は、喪失感とは別に私にある種の希望を与えてくれるものだった。

そのとき私は、人生が辛くてたまらなかったのだけれど、その知らせを聞いた朝、透明な光のエネルギーが体いっぱいに満ちるのを感じた。「人が生まれて死ぬ」という当たり前の営みに、命の尊さを感じて心が震えた。私の体もいつか朽ちてなくなる。だから、精一杯生きようと、干からびていた私の中に力が溢れた。脱皮したみたいな清々しい気分だった。

あれは今でも祖父からのギフトだと思っている。

生前の祖父は気難しくて不安定な人だったけれど、そんな祖父も肉体をなくすと、こんなに優しい愛の存在に還るのだと思った。

(書いてて思い出したど、4月なかばがちょうど命日だった)

 

もしかすると、いま、強いネガティブな感情に囚われている人ほど、感情の嵐が去ったあと、心の曇りが取れて、より透明に、自分自身を見渡せるようになるのかもしれない。

人間のステージを引き上げてくれる出来事というのは、決して肌触りの良い、気持ちいいだけのことではないから。

むしろ、「こんなんもう嫌じゃ!」と炙り出された感情から、「こっちがいい」と感じるものを選び取ってゆく。ネガティブな思いがバネになって、より自分にフィットした場所へ進んでゆけるのだと思う。

そして、我慢強くて理性的な人ほど、「こんなんもう嫌じゃ」を感じるまでに、かなり踏んだり蹴ったりな目に遭わなくてはならなかったりして。

嫌な出来事は、往々にして根性を鍛えるための試練じゃなくて、幸せのために在り方を変えようというメッセージなんだと思う。

 

誰かの言うことを聞いておけばなんとかなる世界はいよいよ終わってゆくように思う。

現に、いま、いろんな人がいろんなことを言っていて、情報も錯綜している。

そのことにパニックを起こして怒っている人も多いんだけど、信じるものを自分の頭と心で選ぶっていうのは、本来、本質的なことだからね。何を信じればいいか分からなくて腹が立つっていうのは、裏を返せば、いままで誰かがいう「これを信じなさーい」に乗っかってたということで。

それが安泰ではないということがわかったのだから、次に乗っかる安泰を血眼で探すのではなくて、そんなものはそもそも無いのやということに気づき、価値観を見直して、心を自立的なあり方にもってゆけるかどうかというのが、アフターコロナの明暗をわける気がするわ。

新しい依存先を探しちゃうと、この乱世では変な宗教にハマったりしかねない。それは、この騒動でもまだ「内なる自分」に気づけなかった人への、次のメッセージなのかもしれないけど。

 

政府も隣人も信じないという孤立ではなくて、自分で考えて、信じるものや信じないものを選ぶということ。

いままで無力感を感じていた人は、自分の力を信じてゆくチャンスになると思うし、何かにしがみついて自分の力を保っていた人は、誇張しないありのままの自分を認めてゆくチャンスになるかもしれない。

魂というのはほんとうに賢いですよね。すべてを知っていて、いろんな障害を仕掛けてくる。

 

巣ごもりは、前の生活に戻るための忍耐ではなくて、ほんとうに前の生活に戻りたいのか、だとしたらどういう在り方をしていきたいのか、少しづつでも考えて変えてゆく学びの時間なのだと思う。