ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

バランスの悪い欲望

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最近思うんですけど、楽して欲しいものがなんでも手に入ったら、それはそれであんまり楽しくないんじゃないかなとか。過程にこそ発見ってたくさん落ちているもので、結果より過程のほうが今となれば尊かったことって、人生を振り返ればけっこうあるなとか。

 自分の欲を抑えずに素直に認めた上で、そこに届いていない現状にネガティブにもならずに済む時、私はいちばん元気だ。

 

連休中はひたすら静かに家で過ごし、庭に出て瞑想してみたりして、毎日、魂とか人の心とか自己との対話とか、そういうことを考えていた。まぁあとの半分は近所のテイクアウトメニューについてとか新作コスメとかのことを考えていたんだけども。

ブログをなるべくたくさん書く予定だったけれど、満月あたりを境に猛然とインプットモードに突入してしまい、本を買い込んで来月のカード請求が心配なわけです。世間のおこもりモードに連動してAmazonの書籍が売り切れまくっているのが不幸中の幸っていうか、欲しい本全部買えてたらまじで破産したかもしれない。

絶盤で高値のついた遊郭本も買ったぜ。

 

これでも、執着や物欲は昨年よりずいぶん減っている。

私がかつて欲しかったものの多くは、今思うと無くても幸福に差し支えないものだった。

手に入れても使わないこともしょっちゅうあった。

欲しい欲しい思ってるときは、手に入れられないことが苦しいんだけど、欲しかった気持ちもいつか忘れてしまうことに気付いてからは、手に入れずに忘れるか、手に入れて忘れるかの違いでしかないようにも思えてきて、そうすると、今の「ほしい」も、8割が消えてなくなるのだった。それでもほしいものは手に入れればいい。心が喜ぶもの、持ち重りしないものだけを所有すればいい。

それでもたまに買い物をしすぎることはあるけど。

 

おもうに、「◯◯をやりたい」「◯◯がほしい」の奥底に、焦りとか罪悪感とか無力感とか無価値感があると苦しいと思う。

「やりたいことをやる」を考えるとき、そのやりたいこと、手に入れたいものが、そういう不足の気持ちから出てきたものでないかどうか点検してみるのは一考だ。ネガティブベースの欲求を、悪いとは思わないけれど、コストの割に実りがないかもしれないよ。それに、愛がないから、人を傷つけやすい。返り血で自分も傷つきやすい。

 

某ナイティナインの岡村隆史氏の女性蔑視発言をきっかけに、上記のようなことをちょっと考えたんだけども、彼に限らず女性をモノのよう捉えてる人って堂々とテレビに出てる芸能人にも普通にいるし、一般人でもいる。

 

私の実感だと、彼らは男社会で気持ちを挫かれているので(例え成功者であっても)卑屈さと尊大さが入り混じっていて、不安定だ。異性愛者である限り、下手したら普通の男たちよりも強く女性を求めているわりに、その「ほしい」の根底には苦しみがみえる。愛からでなく、自分の足りなさを埋め合わせるための恋愛や性愛関係。(男が肉体関係を求めるとき、そこにあるのは必ずしも性欲だけではない。もちろん、愛だけでもない)

自分の足りなさを埋める存在なので、女性を利用価値のみで測っていて、人間として見ていなかったりする。

だから、そういう相手とカップルになると、振り回されて心がげっそりと細ったかと思えば、根性据えてマウントを取ってみたところで、相手は無価値感を刺激されてさらにトラウマを深くし、自分も虚しい勝利感に浸れても幸せではない。はて、恋愛とは?みたいな不毛の境地。

 

相手は鏡なのだ。相手に愛がないならこちらにもないわけで。

 

というところで、話が逸れに逸れたけども、自分が自分をどう扱っているか、愛を持って大切にしているか、欠落した存在だとみなして冷たく厳しく接しているか、というところが「欲」の在り方にかなり反映されるんだと、そういうことを思ったのだった。

 

私はすでに幸せに生きるためのものを持っていると思うか、全然まだまだ不足していると思うか。

自分がいま何を持っていると認識しているかによって、次に欲しいものが変わるということだね。

 

何をどれだけ所有していれば正解かという真理はない。

あくまで「勝手に足りない気がして、勝手に求めている」ということ。

案外、それに気づくことが、欲のバランスをとるための出発点な気がする。