ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

通り魔と鬱と餃子

モデルナワクチンの2回目を接種した夜、

いつも乗ってる快速電車で通り魔事件が起きた。

犯人の男は、「幸せそうな女性を殺したかった」と供述しているというからさらに衝撃である。

ふつうに楽しく暮らしているだけで、見ず知らずの男に逆恨みされて突然刺されるかもしれない現実というものを改めて考えて愕然とした。

「こんなことってあるんか」と思った。

 

同じ文脈で語ってはならないかもしれないけど、

先日閉幕したオリンピックの男子400メートルリレーの決勝で、第一走者から第二走者にバトンが渡らずに失格というハプニングが日本チームで起きた。

メダルを目指して何千時間、何万時間も練習して、ものすごい集中をして臨んだ大舞台でまさかの失格。選手によっては走らずに終わるというという現実は彼らのイメージの中に1ミリでも織り込まれていたんだろうか。

「こんなことってあるんか」

と、やはりテレビの前の私は思った。

 

 「私は守られてる、幸運な人間だ」

そういうメンタリティで生きていれば実際人生はなんとなくポジティブなものになると思って生きていた能天気な私にとって、そういう割り込み事故みたいな出来事もどこかで「自分で引き寄せるモノ」という見方をしていた。

 

といより、「まったくの偶然による暴力的なまでの不運」というものに目を向ける勇気がなかったのかもしれない。

現象としておそろしすぎて。

ポールトーマスアンダーソンの映画みたいだ。

 

こんなふうにして、

世界がまるごと崩れ落ちるような、嵐のように不可抗力の不運というものが生きることと隣り合わせにあるという現実を見せつけられるとき、

私の平和な世界はすこし壊れる。

明日も今日と同じ平穏を享受する保証はないのだという事実を目の当たりにするたび、自分の「命の輪郭」のようなものにすこし触れる気がして襟を正したりするのに、いつのまにか忘れてまた緩慢な人生にもどってゆく。

 

「ちゃんとしないと」という言葉ほど無意味なものはない。欲とか情熱とかが伴わないから。

 

そういう感じで、思考のポケットに落ちて少々ダウナーなときほど、私は餃子を作ることに今日気がついた。

 

ボウルいっぱいの餡を皮に包む反復作業が、非常に瞑想的であるということだ。

ニンニクとニラのにおいに包まれながら、脈略のないイマジネーションの宇宙に漕ぎ出す。

そうすると頭がすっきりして、

大事なことだけが残る。

 

つまり「私を生きる」という全身表現をやるのみだという、しっくりとした質感を伴う思い。

そしてまたそのことも時々忘れたりしながら雑事に追われたりするのだけど、

でもなるべく忘れないようにしたい。

 

 

 

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