ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

条件を満たせば幸せになれる?※修正版

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つくづく、女のただひとつの望みは、愛されることだ。愛を通して、私がここにいていい理由を見つけて、その手触りに幸せを実感することだ。
私自身がそうだったから、とってもよくわかる。
見た目を磨くのも、仕事をがんばるのも、なんなら夢を叶えるのも、時に愛されたいって願望がベースにある。それは、異性からの愛を介すことも多いけど、突き詰めれば自分から自分への愛だと思う。


「モデルの◯◯ちゃんみたいに綺麗だったらいいのに」なんてことを、一度くらいは夢見たことがあるでしょう。それは、不特定多数にチヤホヤされたいとか、美の頂点に立ってみんなの憧れの的になりたいってことが最終目的じゃなくて、完璧な美しさを手にしたら今よりも多くの人が私を認めて愛してくれるだろうし、そうすれば自分のことも好きになれて、人生における苦しみの多くは解消してしまうのに!ってことだったりする。

女にとって、愛を得られないことは、自分自身をまるごと失ってしまうくらいに苦しい。

 


話は変わって、
いま付き合っている彼との将来を考えたとき、
愛着も愛情もあるけれど実質的な面での頼りがいに不安があるな、なんて悩むことは、よくある話。恋愛と結婚は違うから、視点も違ってくるのは当然で、そもそも恋と愛を混同してはならない。

恋愛感情なんて、長い結婚生活の1合目にも達しない時点で冷めるのだから、そのあとの長い道のりを仲良くやっていけるか視野に入れるのは賢明なことだ。

 

だけど、相性ではなくて、相手に多くの社会的条件を求めているとすれば、自分をそれだけ多くの条件で縛っていると考えて、いちど足元を見直してみた方が良いかもしれない。

よく聞くのが年収とか学歴とか勤め先とか。結婚するなら公務員(!)とかね。←私の知り合いが実際に言ってた。


それってつまり、お金があれば、高い学歴があれば、良い会社に勤めていれば、私の人生はもっと思い通りになるのに!という思い込みに囚われている、ということかもしれないのだ。そして重要なのが、そもそも私の人生が自由じゃないという前提に立っているということ。

その思い込みって、刷り込みによる幻想でもあるんだけれど、時にものすごく手強いものだっだりする。

 

私たちの世代(もしくはそれ以上)でね、
「人間は金じゃない、学歴も容姿も関係ない、心の豊かさがすべてなのだから、あなたはあなたらしく伸び伸びと自由に生きなさい」
と教育されて大人になった人間なんてほぼいないんじゃないかな。


学校では、人を見た目で判断してはいけません、人はみんな平等です、とか道徳の授業で習うけども、
実際にはおかしな奴とは友達になるなって保護者の教えの方が身近だったように、
なんていうかウワベは「愛」をベースに物事を語っても、大人たちの本音は「分離」だから、すべての教育が「分離」に倣ってできている。少なくとも今の大人たちが子供の頃はそうだった。共存よりも競争。希望よりも可能性。さらに私たちの世代は、就職氷河期とかって、分離感極まるシビアな学生時代を過ごしたしね。

 


そんなこんなで、「分離」の感覚(というのは、恐れからくる比較や損得勘定や、劣等感、軽蔑、優越感、無価値感、孤独など)にまみれていると、
他人以前に自分自身を信用できなくなる。
エネルギーが下がってしまって、自分の力強さ、頼もしさ、そして自由を信用できなくなる。
そして、内なる力を忘れた分、外から補給したくなる。他者は自分から奪うものか、もしくは与えてくれるもの。という利害ベースの見方になって、共に歩む存在なのだという一体感を失ってしまうのだと思う。


恋人や結婚相手に、たくさんの条件を課して、どれだけ与えてくれるかで相手を選ぶというのは、そういうところから来ているように思える。

しかし、その反対の、相手がなんにもしてくれなくても一方的にジャブジャブと愛を注ぐスタイルの恋愛もまた、無価値感がベースになっていたりする。

ほとんどの場合、女子にとってそれは「無条件の愛」という名の先行投資に他ならず、最終的にはちゃんと愛されたいと思っているので。

(「見返りなんて求めるな、それは愛じゃない」なんつって言ってるのってだいたい男の人ですよね?男は女より与えることが性に合ってるので、それでもある意味幸せなんだけどさ)

 

ちゃんと愛されたい気持ちは、健全に機能するとき、ちゃんと相手を愛したい気持ちとセットになっていると思う。

一方的に奪うのでも与えるのでもなくて、(ミスチルの歌詞みたいになってきた)時に反発をしながらも、歩み寄って、違う性質を持った生き物として融合を目指すもの。

 

恋愛の本質として、自分に無いものを相手に求めるってのは確かにある。まず性的にそうだし、人間的な、性格とか資質とかも。

でも、そういう自分に「無いもの」を肯定的に捉えているか否定的に捉えているか。足りない部分も含めた自分をとりあえずオッケーとして認めているか、足りない自分には価値がないと思い込んで、足りた誰かになろうとしているか。

要するに、「自分おっけー」の土台が固まっているかどうかで、恋愛やパートナーシップの豊かさは大きく変わるんじゃないかと思うわけです。

どうも「条件」っていうのは、「自分だめ」の意識から出ることが多いんじゃないか。

 

自分を信じることと、自分の弱点を許すことは、真逆のようでいて同じだから、
自分が自分を信じ、すべてを許していると、人の弱さも許せるようになるんですよねきっと。

そういう自分と他者への寛容さが、愛に恵まれた人には必ず備わっている。

立派な人や優れた人を目指すのでなく、まず無条件の愛を自分に与えることで、同じものが外からもやってくるようにできている。


私はいつだって自由で、
そして自分自身を生きていて良いのだ。
という絶対的な自分への信頼がすべての女性に備わればいいですね。
これからたくさん恋をする女の子にも、
結婚に迷ってる誰かにも、
子育て中のお母さんにも、
自己犠牲のなかで自分を見失いかけている女性にも、そして私にも。