ユーフォリアの猫たち

幸福に生き抜くためのスピリチュアル・アジテーション

「人生は続くのだから」と彼女は言った。

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いよいよ明日からは雨も上がりそう。

そう思っていた矢先、なんと通っているダンススクールがコロナ不況の煽りをうけて閉校するお知らせが届いた。

通っていた期間は3年ちょっとだったけれど、学生時代、部活に真剣に打ち込まなかった私が大人になってから見つけた部活動としていろんな思い出をくれた。

 

楽しいこともしんどいことも両方あって、個性豊かな仲間たちと情熱的な先生に恵まれて幸せでした私は、、、でもまだちょっと気持ちがおいつかず、しょんぼりしながら出かけたら、私の少し上を並走するように飛ぶトンボ。「前に進みなさい」ってことだね。

そう思うと同時に、「まだ人生は続くのだから」という言葉がどこからともなく降りてきた。

 

喪失のほろ苦さと悲しみのなかで、私はいつも「希望」を見つけてきた気がする。

愛に抱かれていると、ときどき自分がタイムリミットを持った人間であることを忘れそうになる。なにひとつ失われることのない無限の世界があることを覚えている魂は、時に足かせによって生きている意味を思い出す。

いつかは終わってゆくこと、変わってゆくこと、その度にともなう痛みによって、私たちはこの世の輪郭を知るのだということ。苦しみがあるから希望を味わえるのだということ。

明日も明後日もずっと続くと思っていることでも、ほんとうは続いてゆく保証なんて何一つないんだ。

だから人間として生きることを大切にしなくてはね。

そういうところにたどり着いたとき、競争とか、固定概念とか、気を抜くと固着してしまいそうなシステムのほとんどがどうでもよいことに気が付く。

もっとも原始的な「肉体」という枠組みを自覚するとき、じつは人はいちばん自由なのかもしれない。

 

 

 

 

 

「災害ワンチャン男子」を考える。(みんな愛されたいシリーズ)

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しかし梅雨があけないね。

ぐずぐずした天気になってもう随分経つ気がする。

梅雨って春と夏の間にあるジメついた一瞬ってイメージだけど、案外長いのね。もうワンシーズンくらい雨季をやった気分。今年の夏は短いのか。

 

この自粛の最中、「別れた昔の彼氏からコロナ渦の私を気遣う(そぶりの)連絡がきた」という女子たちの報告が頻発した。

話を聞いていると、交際当時の関係の深さはあんまり関係ないようで、何年も付き合った相手もいれば、一時のたわむれみたいな相手もいる。

ある女友達がその現象、および輩に「災害ワンチャン男子」という名前をつけた。

 

これについては「ちょっとした便乗魔」くらいにしか考えてなかったんだけどさ(それでもまあまあひどい件)

昨日話した別の友達からも同様の報告があって、もしかすると地球規模の、男子たちの性質を反映した現象なのかもしれないと思い始めた。(大袈裟)

これを言ったら「俺は本気でお前が心配なんだ!」なんつって怒る人もいるかもしれないけどさ。なかなかどうして。

まず、女子を気遣うふりをして、不安なのは自分なのだろうと。

 

こういう先が見えないご時世では、ウイルスの脅威に、普段抑圧しているより根源的な恐怖や不安が反応して浮上してくるというのがスピリチュアル的なあるひとつの見方なわけです。

意識化されないようにしている「ほんとの恐怖」がザワザワと騒ぎ出し、意識にトリックをかけて「ウイルス怖い!超怖い!」に転じさせていると。

その混沌のなかで、「見捨てられ不安」のようなものが浮かんできているのが世の男たちなのではないかという仮説を私は立てた。

 

これまで、たとえば会社のポストに守られてはいても、本当は自分に価値なんてないんじゃないかとうっすら感じていた人たち(感じないように仕事に邁進していた人たち)のほうが、この状況での恐怖は強いのではないかな。

そういう状況だとか、それに連動して家庭内でもなんとなく居場所がないだとか、まぁ人によっていろいろあると思いますけど、とにかくかつては社会活動に乗じて誤魔化してたものが誤魔化せなくなってきている。

その不安の中で生じた「君は俺を見捨てないよね?」という本音が、「君を心配している!」という建前に変わって発信されたというのはひとつあるんじゃないっすかねぇ。

あくまでひとつのパターンの仮説だけど。

人の心配をしたくなるときって自分に心配があることがけっこうあると思う。

特に男子にとって、誰の役にも立ってないと思うのは、女子が誰からも愛されてないと思うのと同じくらいキツくて、だからわざわざ心配という形を取るのかもしれない。

(いや、僕は正々堂々ワンチャン狙いです、という輩もいるかもしれないが)

 

「見捨てられたくない」という願いは切実なものなので、ぜんぜんおかしなことじゃない。人間には誰にでも所属欲求ってあるものね。当たり前に愛されたいし居場所がほしいし、それを甘えだっていうのはその人がどれだけ必死に自分の悲しみに折り合いをつけてきたのかを物語っている。

そういう願いを男子たちはとくに、「弱さ」とみなして抑圧してきたから、ときどきこんな形で出てくるのだと思う。

弱音を吐くなって言われて育ったから、男子も大変なのだ。

ほんとはみんな愛されたいだけなのにね。

強くなくてもあなたの価値は無くならないんだけどね。

弱気な自分を認めることは何も敗北なんかじゃないんだと思う。

 

 

 

 

ただし私は既読スルーしました。

 

 

 

 

 

 

元彼からの連絡に関するご相談もお待ちしてます♡

 

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お悩み相談フォームを設置したよ

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(ウーピーゴールドバーグの占い師役は最高だった)

 

運動音痴であり方向音痴であり、さらにパソコン音痴でもあるんですけど。

ようやく、やっとお悩み相談フォームを設置することができました。

元々、いつかはメールカウンセリングやりたいと思ってたのに、はてなブログにはDM機能がないことに気づいたのはブログ開設してからでね。

「あ。」と思ったまま半年くらい過ぎてたけどやっと重い腰をあげることができた。

よろしければ気軽にご相談くださいね。

ジャンルは問いませんので。

アドバイスの方向性は、習得中のスピリチュアルリーディングをベースにしますけど、けっきょく目指してゆくのは、その人がその人として、本来の輝きを取り戻して人生をよりよく生きることだから、たとえば自分以外の存在(高次の何かとか)と一体化するとか、そういうところは目的としていません。

なので、スピリチュアルリーディングと言っていいかもわかりません。

一般的に言われるスピリチュアルとはちょっと違うかもしれません(守護霊も見れないし)

 

こちらよりどうぞ↓↓↓

 

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***

 

で昨日は、前日の夜から、ほとんど半日かかりでフォームの設置とプロフィールの手入れに費やし、しかも悪戦苦闘してもちょっとずつしか進まないものだからすでに昼にはグッタリしてしまって、昼時には「何が食べたいのかわからない」状態に。(どんだけパソコン音痴)

それで、「何が食べたいのかわからないなんて、どうしちゃったのか」なんて思ってたんだけども、よくよく考えてみたら、「特に何も食べたくない」が本音だった。

 

こういうことってけっこーーあるかもしれないよね!

たとえば、人間、やりたいことがあるべきだ、やりたいことがあるのが素晴らしい、という観念が植え付けられているから(私が、昼なのだからお腹が空いているはずだ、と思ったように)、「やりたいことがわからない」ことで焦ったり悩んだりするけど、

本音の本音は「いまは何もやりたくない」だったりするんじゃないか。

やるべきことに振り回されて疲れてるとか、自分以外にエネルギーを注ぎすぎて他のことを考えたくないとか、充電したいとか。

一生死ぬまで何もやりたくないことはたぶんあんまりないはずで、やりたいことを探す前にまず、自分を取り戻すための休息期間を与えてあげるという答えが出れば自分を責めないし、焦らずに済むよね。

あと「やりたいこと」というと、=職業・食っていけることという定義になりがちで、食えないことは、いくらやりたくても無駄、みたいな風潮ってありますけど全然そんなことはないです。

むしろ、食っていけることの中から無理くり「やりたいこと」を探して自分を納得させようとするから自分への嘘が生じて疲れちゃうのかも。

「私はこの仕事にやりがいをもっている!」と、本音を隠して思い込むより(本気で思ってるならそれに越したことはない)、

「仕事はクソ、会社もクソ、ただアニメが心の支えなの」と思ってるほうが嘘がないぶん精神衛生上はよいです。

というか、「基本的には一生何もやりたくない」でも特に問題はないと思うけどね。

一生何もやりたくなくても、一生何もやらずに済む人生はないのでね。

ネバーランドに住まない限り、どうしたって人は成長してゆくからね。

 

 

そして昨日はぐったりモードだったけど何やら今日は元気っぽい。

しかしまーーーた外出自粛だって!

 

 

 

 

 

自分の顔を見なくてもいい日常について

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「鏡のない世界で」

というフレーズが出てくるのは、CHARAの「ミルク」という曲の中で、高校生の時に初めてこの曲をちゃんと聴いた私は、すごい歌詞だなと思った。

「だまって だまって 抱いて 鏡のない世界で」

という歌詞の、

鏡のない世界=自分を客観視して自己批判や比較に晒されることのない世界

という風に、私は解釈した。

人と比べることや、それによって劣等感を持つことや、自分にダメ出しするようなシビアな世界から逃げて無条件に無邪気なままで愛されたいという切実な願いを書いた曲だと思った。

 

この曲のことを最近よく思い出すのは、(ちょっと変な話だけど)毎日マスクをして外を歩く状態が、「鏡のない世界」を擬似的に作ってると思うから。

元々、私はマスクって苦手。

蒸れるしメイクが取れるし、気持ちが病人っぽくなるし、何よりやっぱり顔を隠すっていうのが何かから逃げてる気がして、自分に負けた気がして嫌だった。

それが今や外出するときはなかば強制的にマスクをつけなくてはいけない状態で、その強制力に甘んじて、ふとした瞬間に(車窓とかに映る)気を抜いた自分の顔を見なくてもいい状態に居心地のよさも感じている。

理想の自分と比べなくてもいい。

ほかの誰かと比べなくてもいい。

昔の自分とも比べなくていい。

比べられると思わなくてもいい。

品定めされると思わなくてもいい。

鏡のない世界の安堵感。

 

これは、このコロナ騒ぎにおいて、何気に私にとって「向き合わされてるテーマ」のひとつである。

つまり、この安らぎを知ってしまったら、そっちに行く自由もあるのだよ?ということ。

老けたとか太ったとかでいちいち自分を刺さなくてもいい、人と比べなくてもいい、嫉妬もしなくていい、マスクをしていてもしていなくても、そういう風に自分を守ってあげることも選択できるけど?という示唆。

(そして鏡の世界に逃げ込んだ私は、実際にいくらかは老け込んだしメキメキ太った)

顔が見えないからって気を緩めてはならないと、甘えてはならないと、より一層ストイックに自己鍛錬に励む人もいるだろう。でも私はそっちを迷うことなく選ぶことはしなかった。 

だって、なぜ女の人は綺麗でいたいと思うのでしょう。

もし、人からみて美しくない自分には価値がないと思っていて、愛をもらうための切り札が容姿の美しさとか若さなんだと思っているとして、結果次第で上がったり下がったりする「自己肯定感」を必死で定位置にキープするために美容に励むのだったら、もっとぶっとく根本的に自分への愛を鍛える方法を探したほうが幸せかもしれないよね。

 

失恋直後の女友達がとつぜん綺麗になったりするでしょう。

もちろん、それは全然わるいことではない。

でも人って、愛が枯渇しているからこそ、外見をものすごく綺麗に繕ったりすることもあるのだ。

美しくなれば、喉から手が出るほど欲しい愛を呼び戻せると思っているからですね。

愛が枯渇していれば、必ずしも外見も破れかぶれになるかと言ったらそうではないという話。

 

だからと言って、「外見なんて関係ない。人は内面がすべてです」なんて風紀委員みたいなことが言いたいわけではない。

美しくなる努力をするなら、自分を戒める方向でなく、自分を開放し、元気付ける方向で。

もしその努力がどこか息苦しくて辛いものなら、「なぜ自分は美しくなりたいか」を、いまいちど立ち止まって考えてみるとよいのでは?と、私は思うのでした。

 

 

 ☆☆☆スピリチュアルお悩み相談はじめました☆☆☆

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過去のYouTube観覧履歴に思うこと。

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突然ですが、みなさんYouTubeのフォルダの整理ってしてますかね?

ノリで作ったはいいけど全然使ってないフォルダがあったり、昔の趣味で作った恥ずかしいフォルダがあったり、何も考えずにお気に入りリストに突っ込んだ動画が大量にあったりしませんかね?

私にはあるぜ。(聞いてないんだけど)

 

で、そのブラックボックスを久々に開いて、昔のお気に入りリストを整理したんだけど、まじでびっくりするくらい「自己肯定感を上げる方法」とか「自分を無条件に受け入れる方法」とか「劣等感を克服する方法」みたいな、自己啓発動画ばっかなのな。

中には「聞き流すだけで自己愛が爆上げになる3時間の音声」みたいな、どっかの英語教材かな?っていう胡散臭いやつにまで手を出していて当時の七転八倒ぶりが窺える。

ていうか聞き流すだけで自己愛爆上げって何だよ……!!!スピードセルフラブかよ!!

 

裏を返せば、ほんとうにこの頃の私は、どんだけ自己肯定感が低くて自分を無条件に受け入れられなくて劣等感が強かったんでしょう。

 いろんな本を読んだり、自己愛爆上げ動画を観たり、自己啓発教材に手を出したり、謎のメルマガに登録したりジタバタしてたけど、それらの内容を今となってはもうほとんど覚えていない。

 

そして逆説的に見えてくるのは、自己肯定感がある程度高い状態というのは、自己肯定感を上げる方法とか、自分はいま自己肯定感が高いのか低いのかとか、そういうことを気にも留めない状態でもあるのだった。

YouTube開いて、検索窓に「自己肯定感」とか断じて打ち込まないもんな、今の私は。モフモフと世界の食べ物(インドのヤバい屋台とか)ばっか見てるもんな。

あとはスピリチュアル関連。まあスピリチュアルの動画は見てますね。

 

だけど、今の自分が必要としなくなったとは言え、自分軸に戻すとか、自分を愛するとか、自己肯定感を上げるとか、そういう経験則は大事なことだから忘れないよう整理しておこうと思った。

 

そんなことを考えながら久々のひとりカフェ。

こういう時間はほんとうに大事!

 

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(しかし写真下手すぎんか……)

 

 

 

愛は祈り(波動は汚れないって話)

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このところどうにも調子がわるくて、エネルギーが停滞ぎみ。

書きたいことや、読みたい本はたくさんあっても、うまく集中できなくて、すぐに放り出してしまう。そうして、ブログの下書きとしおりを挟んだ本ばかりが溜まっていった。

部屋も散らかってるし。

軸はずれるし。

眠いのに寝れないし。

無駄に焦るし。

 

という記事さえ下書きにブチ込んだまま養成講座へ行き、うかうかと週末を終える。

「ありたい状態を意図してカウンセリングに臨む」というのが、目の覚めるような教示として心に染み渡った。

「〇〇しなければ」ではなくて、「〇〇でいよう」とか「〇〇でありますように」とか。

これは、責任感のような強靭さではなくて軽やかな願いなんだけれども、ひとつの曇りもない本心っていうのは、自分を助けてくれる芯になると思った。

 

スピリチュアルのブログなどを見てると、やはり「〇〇をすると波動が汚れる」とか「アセンションできない人の末路」みたいなことがしょっちゅう書いてあり相変わらずモヤる。

しかもそういう方ほど「正統派スピリチュアルカウンセラー」という肩書きだったりしてね。

 

スピリチュアルって結局いまでも狭くて特殊な世界の「趣味」だって多くの人に思われてる。

その狭い世界で、狭い世界の教義に当てはめて何かをdisったり、取り込んだり、崇拝したり、崇拝されたがったりしているうちに、閉じた円環はさらにどんどん閉じていってただのカルトになってしまわないのかな。

「あなたそんなことしてると波動が汚れますよ」と、お客さんに言うカウンセラーの人は、どんな気持ちで悩んだり傷ついたりしてる相手と対面してるんだろう。

白黒両方ある人間を、真っ白に漂白してしまおうとするのは、それ自体が黒の性質を孕んでいる。

ていうか波動が汚れるって意味がわからないけどね正直。いや汚れないと思うけどね。

落ち込んだり、逃げたり、欲に負けたり、何かに執着したりする、そういう人間のさまざまな状態に「汚い」っていう暴力的なジャッジを与えるスピリチュアリストにはほんとにちょっと共感できない。(言ってしまった!!!)

波動が汚れないように必死で清く正しい生き方に努めても、反対に俗の限りを尽くしても、あなたは汚れたりしない。弱くても狡くても、汚れたりしない。

決して汚れたりしないってわかっても、それでもある種の人たちは清貧を貫くのかな?

「やってらんねーわ、好きなもん食べて好きに生きよ」ってならないかな?

そうなってこそ、だと思うんですよね私は。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スピリチュアル美容革命

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きょうはめっちゃいい。

営業縮小で近所のうどん屋のメニューから消えていた「鍋焼きうどん」がたまたま帰宅途中に通りかかったら復活していた。

鍋焼きうどんはやっぱりうまい。

ふやふやになった海老天も、お出汁を吸った椎茸も、ちょっと香ばしい餅も、むろん麺もお出汁もすべてがうまい。西日本の人間なので、蕎麦よりうどんが好きなのだ。

機嫌がよくなってプラザで細々と化粧品などを買って帰った。

きょうはめっちゃいい。

すべての女子たちよ、幸せであれ!みたいな気分。

あーあいつもこんなふうにいられたらなぁ。

 

 

2ヶ月ぶりに体重を量ったら、2キロ増えていた。

2ヶ月前と比べて2キロってことで、昨年の同じ時期と比べたら4キロの増量だ。

いやぁどうりで最近、シルエットが変わってきたと思ったんすよねぇ。

しかし、こんなにあっけらかんとしていられることがもはや奇跡。

そもそも、2ヶ月も体重計に乗らないってありえないことだったし、0.5キロでも減れば大喜び、でも1キロ増えた日には、自分の価値が暴落したような気分になるのが恒例だった。

毎日体重計に乗って、ログと睨めっこしながら食べたいものを必死に我慢して体を動かして、とにかく「やりたくないこと」を全部やって、結果に一喜一憂するのが私にとってのダイエットというものだった。

あと3キロ痩せれば、私の価値は今よりうんと高くなって「綺麗だね」ってみんなに言われて愛もたくさんもらえて幸せになれる。あと3キロ痩せれば。

そう思って始めても、3キロで満足したことなんてなかった。

さらにもうあと3キロ痩せれば、私の価値は今よりうんと高くなって「綺麗だね」ってみんなに言われて愛をたくさんもらえて以下同文。これの繰り返し。

しかしある時気づいたんですわ、、

痩せようが太ろうが私の価値は変わらないし誰に「綺麗」だと言われようがブスだと言われようが、私が私に変わらない愛を注ぎ続けるのだから幸せっていうのはここにあってゴールテープを切った先にあるものじゃない。

 

(言ってやったぜ!!)

 

という前提において(長い)、それでもちょっと痩せようと思う。(結局痩せたいんかい!!!!)

理由は、ほんとに体が重くなってきたから。あともうすこしスッキリしたシルエットの方が自分が気持ちよくて服も似合うから。

でね。スピリチュアリストの端くれとして、ここはダイエットもスピで行きたいと思うわけです。前からスピ痩せを実験したいと思っていたんだけど、ついにその時がきたぜ。

それで考えて、降りてきたキーワードは

「軽やかさと健やかさ」

これをアファメーションにしようと思う。

スピで痩せるには体重計らないほうが良い説がありますが、私は目安として一応計量する。ただし、体重の増減を自分の価値に結びつけない。

 「これを食べたらダメ」「毎日○○する」という決め事はしない。(=嫌なことはやらない。やる気になったことはする)

食べる時は罪悪感をもたない。幸せに美味しく頂く。

ただし、過剰に食べたいと思う時は、その理由を探る。

そして「軽やかな体で健康な自分」を心に留めておき、そこにマインドを合わせて生活する。

 

よっしゃ、これで行ってみようとりあえず。

しかしこれだと、痩せなくても「まぁええかー」ってなりそう。そうなったらそうなったで、まぁええかーなんですけど。強い意志など持たぬ!