ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

深夜愚行便

 

すっかり音楽を聞かなくなって久しく、最近のヒット曲は紅白歌合戦で知るていたらくである。

若い頃に聴いた音楽がいまでも至高で、最近の音楽事情なんて何も知らないのに、「最近はろくな曲がない」なんて言ってしまう、そういう感性の錆びた中高年をむかしは馬鹿にしていたのに、いまや自分がすっかりそっち側。

それってむかしの音楽が優れているわけではなくて、その音楽と共にあった過ぎ去りし日々を美化してるだけなんだと思う。

当時は当時で、今よりもっとどうでもいいことに焦ったり落ち込んだりしていて、自分をよくわかっていなかった分メランコリックで、1日は長くて退屈だった。

でもそういうのって忘れちゃうから。

若い肉体と、今は失われた可能性のことばかりを覚えているから。

 

私はなんていうか、そういうふつうの中年らしく、ほろほろと儚い、他人にとっては無価値な過去をいつまでも大事にしてたいし、

いつでも今が最高!みたいなことはじつはあんまり言いたくない。

過去に埋没するのはかっこよくないけど、アップデートしか頭にない生き方も、それはそれで出汁の効いてないスープみたいだ。

自分がとおってきた道とこれから行く道、今いる場所をそれぞれ大事にしていたい。

 

そんな過ぎ去りし時代のエモな音楽でいちばん心が揺れるのがヌジャベスなんです。

ちょっと悪かった当時の彼(高良健吾に似ていた)のカーステレオで聴いて好きになった。

 

雨の降る夜の港で、等間隔にならんだ街灯が濡れた地面にうつってた。

とおくの灯台が、音もなく黒いうねりを一瞬照らして消える。

わたしたちは手を繋いで濡れた潮風のなかをゆっくり歩き、(今となっては死んでも履けないヴィヴィアンウエストウッドのピンヒール)

すっかり寒くなってあたたかい車内に戻って、これからどうしようっていう甘い緊張感の間を流れていたのがヌジャベス。

 

けっきょく私たちは、プラトニックのまま(!)2ヶ月だけつきあって別れた。

当時の私は焦れて焦れて、肩の出るニットを着たり、甘ったるい香水を振りかけたりしてデートに行ったものだけれど、

彼は慎重に最後の一線を越えるのを避けているように見えた。

 

数年後に知ったのは、彼が現在男性のパートナーと暮らしていること。

 

ヌジャベスは、あの日と同じ2月の寒い夜、事故でこの世を去った。

 

 

そんなヌジャベスをまた最近、未聴のアルバムも含めて聴いているのだけれど、

晩唐突に!元カレたちに教えてもらって好きになった曲のプレイリストを作ろうと思い立った。

これぞ熟女の悪趣味よな。笑

過去を美化する気持ちはもちろんあるけど、

過去のいろんな場所に刺さってチリチリと痛みを誘い続けた棘が溶けて、

すべてが平等に醸造された黄金色の思い出になって、やっとすべてを味わえるようになったのかもしれない。

まだ挽回できるとか、見返したいみたいな自分への変な期待が消えて、ただよくやってきたねって、ようやく思えるようになったのかもしれない。

 

プレイリストは、私の恋人たちらしい個性豊かなラインナップ。

パンクもローファイもアイリッシュフォークも入っている。

みんなそれぞれの人生を生きて、それぞれの音楽を好きになったのねと思うと感慨深くて人間への愛しさに胸がじんわりする。

 

そして彼らと交差した私の人生にも。

 

 

 

 

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蟹と漫才

昨日の医者は機嫌がよかった。

私の病気が快方に向かっているからだ。

本当のところ、実感としては劇的に良くなったってわけでもない。

いや、気のせいかも?くらいの感じかもしれない。

でも、検査の結果には改善が見られているとのことだった。

たしかに、日々、めまいのことを気にして過ごす時間は減った。

単に慣れただけな気もするが、気にしなくなったら治りは早いらしい。

そう言われると何となく良くなった気もして、帰り道の足取りは軽い。

貰った薬は、メリスロンと漢方の苓桂朮甘湯。

前回言われていた、お脳をぼーっとさせて誤魔化す系の強い薬の服用は免れた。

 

帰宅すると、玄関にでっかい発泡スチロールが置かれていて、蟹が届いていた。

あー知ってたら崎陽軒シウマイ弁当買わなかったのに、氷結じゃなくて一番搾りにしたのに。と思いながら、崎陽軒は冷蔵庫へ格納。

 

1キロくらいある茹で松葉蟹である。

松葉蟹に関しては、この世に現存する食材で至高(断言)

でバシバシ捌いて、粛々と食べる。

口に入れるごとにエクスタシーに襲われるので、その都度白目。

私いまこの瞬間に、

「お前蟹食ってる場合か、もっと向上心を持って自分を律しろ」

的な説教をされたら、

「いや、蟹食ってる場合なんだよ君。これ以上に素敵なことなんてないよ」

と、そいつのハングリー精神を憐れみながらウットリと太い脚をむしゃぶり続けるでしょうね、それくらいの美味。

 

でも、この美味しさを知らない人がいたとしても、人生損してるよとかそういうこと言うのはしょうもないよな、

だけど私が甲殻アレルギーになったら心は確実に死ぬよな、なんて、心底とりとめのないことを考えていた。

トランス状態だから。

 

蟹臭いスエットを洗濯機にぶちこみ、未練がましく作る蟹殻汁の旨さ。

 

数日遡って、M-1グランプリを観て久々にすこし泣いた。

今年は本当におもしろかった。

過去の関係者(隠語)が決勝の舞台に立ったのよ。

当時は鳴かず飛ばずだったから、ほんとにがんばったのねぇって思って。

 

私は静かに心の底で応援してるだけだから安心したまえ。

 

 

 

ゆれる世界の中で

 

11月の上旬からふわふわとグラグラの間のようなめまいが起こり、終始船酔いのような状態である。

 

医者が苦手な私は何とか気合いで治らぬものかと思っていたけれど、一向によくならないために耳鼻科を受診した。

さいわい、近所にめまい専門の有名な先生がいるというネットの情報を見つける。

 

さまざまな検査と問診を経て、前庭神経炎の軽いやつ、と診断される。

リハビリと投薬で2週間ほどで良くなるはずが、(じつは私はこのとき、2週間では治らない気がしていた)

やはり3週間経っても改善しないので再受診。

 

今度は薬を変えて漢方。このまま3ヶ月治らなければ、慢性のなんとかという病気に移行するから、2週間後に治らなければ薬を強くするという説明を淡々と受け、じんわりと沈んだまま誰もいない待合室をあとにする。

 

 

明日から雨が降る、寒い夕暮れ。

帰り道に古いレストランでカキフライを食べているときに、猛然と怒りが湧いてきた。

 

私はこれからずっとこうやって、ふらふらふらふらしながら、弱々しく病院に通い、

1日何回も薬を飲み、めまいを理由に色んなことがこわくなって、飲み会も億劫になり、友達と会うたびに心配されて、誰からも心配されなかったらそれはそれで辛くなったりして、

そうやってかわいそうな人ポジションで生きていくのか。

 

じつに許し難い。私の生命において。

 

次に治らなかったら飲まなくてはならないその強い薬は、

頭の神経を鈍らせてぼーっとさせて、めまいを誤魔化すものらしい。

まったく、あの忌々しい向精神薬を思い出す。

向精神とは名ばかりの、なにひとつ精神を向上させない廃人薬。

誰が私の精神世界に手をつっこんで、この感性を鈍らせてくれるっていうのか。

とろとろと夢うつつの中で奇病にかかった儚い私スタンスで生きていけってか。

 

そういう火事場のやけくそ根性みたいなパワーが湧いてきて、グラスワインを一気に飲み干し、そして、

よーし私は健康になる。

と、高らかに決定した。

 

 

私がめまいになったのは、まず体と頭のバランスが取れていなかった。

ようは、グラウンディングが弱かったこと。

 

そして、ものごとを複雑にしすぎる思考の癖だ。

どうせわからない人の気持ち、見通せない先のこと、変えられない過去のこと。

それらを含めた巨大な糸の塊をときほぐすために精神力と時間を使っていた節がある。

(人様にはセッションで、「思考よりハートに自分の中心を戻しましょう」とか、偉そうなことを言っているくせに)

 

その葛藤はいつか大きな宝になるでしょう。

しかし今は、

とにかく世界をシンプルにすることにした。

 

やりたいことをやる

やりたくないことからはなるべく逃げる

去る者は追わない

斟酌しない

板挟みにならない

つまらない本を我慢して読まない

気の乗らない「つきあい」はパス

義理も最低限に

八方美人をしない

嫌われることを怖がらない

 

愛のないことはしないってことだ。ようするに。

健康を犠牲にしてまで果たさなければならない義務などないのだから。

 

それはスピリチュアリストとして、

めちゃくちゃ基礎の基礎の基礎。

(あー実行できてなかったかーと思うと悲しいが)

 

病気に囚われるのではなく、

元気にすごすビジョンを大事にする

体を動かし

美味しいものをたべる

化粧をする

好きな服を着る

温泉にいく

料理をしてセッションもする

なるべく、いままで通りのことをいままで通りにする。

 

そして

今まで雨水みたいに無料だと思ってた、ありあまる健康に今更ながらmajiで感謝⭐︎な日々です

ほんまにね

 

2度目の診察でもらった苓桂朮甘湯(覚えられないのでコピペ)

という漢方が、めまい止めの西洋薬より効いている印象で、

漢方に興味が湧いてきた。

 

20年ぶりに絵も描きたいし、ひとり旅もしたいし、

やりたいことは色々。

 

 

 

 

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通り魔と鬱と餃子

モデルナワクチンの2回目を接種した夜、

いつも乗ってる快速電車で通り魔事件が起きた。

犯人の男は、「幸せそうな女性を殺したかった」と供述しているというからさらに衝撃である。

ふつうに楽しく暮らしているだけで、見ず知らずの男に逆恨みされて突然刺されるかもしれない現実というものを改めて考えて愕然とした。

「こんなことってあるんか」と思った。

 

同じ文脈で語ってはならないかもしれないけど、

先日閉幕したオリンピックの男子400メートルリレーの決勝で、第一走者から第二走者にバトンが渡らずに失格というハプニングが日本チームで起きた。

メダルを目指して何千時間、何万時間も練習して、ものすごい集中をして臨んだ大舞台でまさかの失格。選手によっては走らずに終わるというという現実は彼らのイメージの中に1ミリでも織り込まれていたんだろうか。

「こんなことってあるんか」

と、やはりテレビの前の私は思った。

 

 「私は守られてる、幸運な人間だ」

そういうメンタリティで生きていれば実際人生はなんとなくポジティブなものになると思って生きていた能天気な私にとって、そういう割り込み事故みたいな出来事もどこかで「自分で引き寄せるモノ」という見方をしていた。

 

といより、「まったくの偶然による暴力的なまでの不運」というものに目を向ける勇気がなかったのかもしれない。

現象としておそろしすぎて。

ポールトーマスアンダーソンの映画みたいだ。

 

こんなふうにして、

世界がまるごと崩れ落ちるような、嵐のように不可抗力の不運というものが生きることと隣り合わせにあるという現実を見せつけられるとき、

私の平和な世界はすこし壊れる。

明日も今日と同じ平穏を享受する保証はないのだという事実を目の当たりにするたび、自分の「命の輪郭」のようなものにすこし触れる気がして襟を正したりするのに、いつのまにか忘れてまた緩慢な人生にもどってゆく。

 

「ちゃんとしないと」という言葉ほど無意味なものはない。欲とか情熱とかが伴わないから。

 

そういう感じで、思考のポケットに落ちて少々ダウナーなときほど、私は餃子を作ることに今日気がついた。

 

ボウルいっぱいの餡を皮に包む反復作業が、非常に瞑想的であるということだ。

ニンニクとニラのにおいに包まれながら、脈略のないイマジネーションの宇宙に漕ぎ出す。

そうすると頭がすっきりして、

大事なことだけが残る。

 

つまり「私を生きる」という全身表現をやるのみだという、しっくりとした質感を伴う思い。

そしてまたそのことも時々忘れたりしながら雑事に追われたりするのだけど、

でもなるべく忘れないようにしたい。

 

 

 

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ゼロ年代のブログみたいに。

こんにちは!スピリチュアリストです。   

アメブロに引っ越して7ヶ月くらい経ったんだけども、はてなブログの軽さがやっぱり好きでこっちはこっちで軽い内容を書く用にしようかと思う。

アメブロではメンタルとスピの話を主に書いていますので、

よければみてくださいね。

 

 

なんでこれやろうと思ったかっていうと、

最近、2000年代初頭のブログを読むのにハマってるんですよ。

FC2とかアメブロとかlivedoorブログとかで、もうとっくに更新は停止してるんだけど15年くらいインターネット宇宙に漂い続けている個人ブログっていうのがあるじゃない。

 

ああいうのを見つけるとすごい延々と読み込んでしまう。

あの時代にブログやってた人って書くことが好きなのね。

SNSアフィリエイトも今ほど当たり前じゃないし、

WEBで自分を売り込むとか、もっと露骨に言えばWEBで金を稼ごうって意識が浸透してない時代だったから、

セルフブランディングの計算高さみたいなものがない素朴な文章で、

洗練もされてないしべつにすごいことも書いてないんだけど、

ふつうの日常を発信することの楽しさに溢れている。

そういう、プリミティブなブログのあり方に触発されたんだわ。

 

学生時代にやってた「魔法のあいらんど」みたいで新鮮。

ドコモの携帯電話でぷちぷち打ってた、文字制限200字くらいの日記。

HTMLまで打ってたからね。携帯で。エアコンのない部屋で。

 

そして大学受験に失敗したっていう。

 

 

 

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ブログを引っ越しました!

 

スピリチュアルネタはアメブロに持っていこうと突然思い立ち(やっと)

引っ越しました。

ハテナでお世話になった皆さん、ありがとうございました。

今後ともよろしくお願いします。

こちらのブログは、スピネタ以外を書くときに使うかもしれません。

 

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水峰愛のすぴの生き様(仮)

自由=ワガママと言われてきたもんね

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横浜中華街へ行ってきた。

大好きなんですよ中華街。

日本だけど日本じゃないみたいな、雑多な空気。よくクリスマスに行ってね、中華ディナーを食べて(なにせフレンチだとかイタリアンはクリスマスは激混みなので、ほどほどな中華が定番)

それで冬の夜中の、人がいなくなった中華街を散策するのが好きです。ちょっとシュールで、異次元に迷い込んだような「千と千尋」的な不思議さがあって、きもちいいよ。

そして朝は7時からお粥を食べに繰り出します。

コロナ禍で一時は閑散としてたみたいだけども、人出が戻ってよかった。

 

 

****

 

こないだ、ある夜、唐突に、「これからはやりたいことをやりたい放題やろう」

と、いきなり電気がビーーーーッと流れたみたいに思ったんです。

たぶん、ベッドに入って、寝かけてたと思うんだけど。最近、寝かけてる時に、たまに変な電波を受信するのね。

ていうか、私スピリチュアルを人生の指針にするようになって、そんなことはとっくの昔に決めてたはずなんですよ。

自由に生きる、だとか、そんなことは。

だけど、それもまだまだ「理想」として掲げていただけの部分があって、腑に落ちていなかったんだと思う。

「まあ自由に生きたい」だとかってのは、不自由さの裏返しですからね。

なかなか人間として染み付いたマインドって簡単には抜けなくて、

人間っていうのはそういう矛盾の中にどぼんどぼん落ちながら生きてるんだから。

 

でまあ、寝がけにとつぜん閃いたことにより、さらに一段、魂が解放されるのを感じたわけです。

カウンセリングについても、もっとたくさんやって経験を積まなきゃと焦ってた部分があったけど、なんかそういう力も抜けた。

(力が抜けた途端、失敗してもいいかとココナラに出品する気になり、さっそくやってみた)

 

思ってみると、まあほとんどの人が、「自由=ワガママ」と言われて育ったよね。

ワガママを言わず、卑屈なくらい謙遜して、自分のことは後回しにして人のために何かしてあげることが美徳だとされてきた。

子供の頃、そういう価値観を持たずに「自分全開」で生きる人間は社会では受け入れられないし愛されないと知った時、ぶっちゃけ私はまじで死にたくなった。

特に私はかなり変わった子供だったから、「愛されたければその個性は全部殺せ=死ね」と言われているような気がして、夢も希望もないなと思ったんです。

特に女の子は、謙虚であることを求められるよね。私なんて女の子らしさのカケラもなく、それどころか「生と死」に異常な関心があって、落ちてるキツネとか猫の死骸を拾って帰ったりしてたからね。(本格的にやばい件)

 

だけどそれって呪いだから。(え、キツネの?)

キツネの呪いではなくて、「◯◯すべき」を人にも他人にも強制することは、呪うのと一緒という意味だよ。キツネは埋葬したから感謝されてるはず(そういう話じゃないんだけど)

 

ということは、本当の本当のところでは、みんな自由にのびのびと生きたいと思ってる。口やかましく保守的な田舎の親戚とかもみんな、やりたい放題やっていいならやりたいと思ってんだから(笑)

まあ、死体を拾いたい人はあんまりいないだろうけどさ。いたら友達になりましょう(←ほんとにやめて)

 

そして、「もう死ぬしかないわ」と思った私はどっこい元気に生きている。

自由な魂を持って生まれて、どん詰まりの不自由を経験し、また自由に戻るためのアトラクションの中をみんな生きてる。

でね、その「不自由」もどっから来てるかというと、「愛されたい」「わかってほしい」から来てるのね。

謙遜も自己犠牲も、「こんなにやったんだから愛してくれますよね?」「認めてくれますよね?」というのが深い部分であるわけで、ほんとにやりたくてやってるんだったら人には強制しないし、自由な他人を見てイラついたりもしない。

 

がしかし!自由に生きても愛は無くならないんだとしたらどうするかね。

自由に生きようが不自由の中で溺れようが、同じようにいつも見守られていて、愛されてるんだとしたら。

てことは、その「欠乏感」は幻ということです。(と言っても、人間には感情があるから、急に満たされた気持ちにならなくても問題ナシです。不安でも怒りがあっても自分を責めてても、そのままをいったん認めてあげてください)

これからは、愛されるためにどうするか、ではなくて、そもそも愛されている、ということに気づいて、怖がらずに自分を活かしてゆける人が増えるといいなぁと願っています。

 

 

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