ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

感情の責任

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べつに自分が悪いわけじゃないのに、口癖のように謝罪の言葉を添えてしまうのは私の癖だ。

できればやめたいなと最近おもうようになった。

 

会社の人に遠慮して、ほんとはちょっと嫌でも「大丈夫だよ」と反射的に言ってしまうのも、後味がわるい。

スムーズな進行のために譲れるところを譲ろうという気持ちからでなく、自分を守るために咄嗟に出た言葉だというのがわかるから。

 

それは母親の感情に非常に引きずられてしまうことと強く関係している。

母がネガティブ感情を口に出すと、私はそれ以上に辛くなる。何かやりたいことがあっても、母が難色を示すと、実行するのが苦しくなって、途中で折れるか、逃げるように母をシャットアウトする。私の大事な人やもののことを悪く言われると、自分が引き裂かれるように苦しい。いちばん、他人事として切り離せない相手が母なのだった。

最近あんま会わないし、実家に帰ればお客さんだし、感情がすれ違う機会もないから忘れてたんだけど、この点に関してまだ克服ができていないことに気がついた。

 

そのことを母は知らないだろう。

(そして私も私で、母の葛藤を正確に知ることはできない)

以前の母は、私や父に、歪んだ自己解釈の果ての被害者感情をよく投げつけた。それは、人の言葉や行動の裏の裏を読んで生まれた「解釈」なのだけれど、彼女にとって人の言葉はどう読んでもだいたいネガティブに行き着くらしかった。人の悪口もよく言うタイプだった。

家族のために尽くしているのに報われないという態度をあらわにされると、家族はみんな自分が悪いような気がして母に何も言えなくなるのだった。

 

人をいちいち疑ってかかるのは心のある部分を守るために猜疑心で自分を包んでいる。

自分は人生で割りを食っていて、どうせ人の厚意なんて受け取れないのだと、母は心の底では思っていたのだと思う。自分を木に括り付けて、誰かが運んでくるかもしれない幸せを夢見ていたのだと思う。

まるで家の周りを巨大なガラクタで囲うようにして、心の見たくない部分を守るために不自由さで武装してしまうことが人間にはある。

いまは育児の責任を終えて子供たちが家を出たことで、前よりも自分と向き合ったんじゃないかという気がしているけど。

 

私が大人になったいまでも、人の言うことに逆らうのが難しいのは、母に同化して生きてきた20何年かの名残だ。

家族っていうのは多かれ少なかれ、人生の長いスパンで影響を及ぼし合う無意識で繋がれた共同体だ。だから、ネガティブに見える影響そのものを完全にクリアにすることは現実的じゃない。ちょっとくらいは親の目を気にしていたっていいんだとおもう。誰かを悲しませたくないと思うのは愛だから、誰がどれだけ泣こうが、どれだけ憎まれようがどこ吹く風で、徹底した我儘を貫きたいと思っているわけじゃない。

 

だけど、自分の感情も人生もあくまで自分のものであり、やはり自分の幸せは自分を裸にしてよく見つめたところにある。その作業は自分にしかできない。

 

ほんとうは、たいして悪くないのに謝って自分を守らなくても私の価値が傷つくことはない。

嫌なものは嫌だと、可能な範囲で主張すればいい。心の中で多少舌打ちされようが、そんなものはお互い様なのだ。

 

従順であることが人の価値を決めるように、「いい子/悪い子」っていうのは保護者にとっての「都合がいい子」「都合が悪い子」をオブラートに包んだ観念だ。

そのジャッジでコントロールされて大人になった私たちは、子供の世界の不文律をいまも少し引きずって生きている。

うちは母子の繋がりがわりと強かったから、引きずり方も根深いのかもしれない。

 

そういうわけで、自分を守る残りの鎧を脱いでゆこうと思った長期休暇の初日。