ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

「先が見えない」は当たり前のことだった。

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先が見えない不安、見通しの立たない不安に駆られている人がいま多いんじゃないかと思うけど。

明日のことはわからないのは当たり前のことであって、わかったつもりになっているということそのものが、本質から離れた状態なのかもしれないね。

「わからない」ことは不安だ。

だから、人間だれしも、不安を感じないように、わかったふりをしている。心の動きがそのようにシステムされているので、仕方がない。

でもここへ来て、パンドラの箱をひっくり返されて、「わからないという真実」があらわになった。

それって希望じゃないですか?「自分をちゃんと見て」「当たり前を疑って」と、言われているんだなと私は受け取ったので。

 

コロナ騒動が終わっても、劇的に、別物みたいに、たとえば夜が昼になるように、ニューデリーがニューヨークになるように世界は変わったりしないのかもしれない。でもきっと確実に、ビフォアフターの差は出てくる。後世で歴史的、社会的、文化的分岐点として論じられるような、象徴的な出来事として。世界のニュアンスが変わる。それは、個人個人が変わるということで。

世間的にネガティブなことが、スピリチュアルでもネガティブなことなのかと言ったらそんなことはまったくないのね。

 

不謹慎ついでに言うと、5年ほど前に祖父が亡くなったのだけれど。

祖父の死は、喪失感とは別に私にある種の希望を与えてくれるものだった。

そのとき私は、人生が辛くてたまらなかったのだけれど、その知らせを聞いた朝、透明な光のエネルギーが体いっぱいに満ちるのを感じた。「人が生まれて死ぬ」という当たり前の営みに、命の尊さを感じて心が震えた。私の体もいつか朽ちてなくなる。だから、精一杯生きようと、干からびていた私の中に力が溢れた。脱皮したみたいな清々しい気分だった。

あれは今でも祖父からのギフトだと思っている。

生前の祖父は気難しくて不安定な人だったけれど、そんな祖父も肉体をなくすと、こんなに優しい愛の存在に還るのだと思った。

(書いてて思い出したど、4月なかばがちょうど命日だった)

 

もしかすると、いま、強いネガティブな感情に囚われている人ほど、感情の嵐が去ったあと、心の曇りが取れて、より透明に、自分自身を見渡せるようになるのかもしれない。

人間のステージを引き上げてくれる出来事というのは、決して肌触りの良い、気持ちいいだけのことではないから。

むしろ、「こんなんもう嫌じゃ!」と炙り出された感情から、「こっちがいい」と感じるものを選び取ってゆく。ネガティブな思いがバネになって、より自分にフィットした場所へ進んでゆけるのだと思う。

そして、我慢強くて理性的な人ほど、「こんなんもう嫌じゃ」を感じるまでに、かなり踏んだり蹴ったりな目に遭わなくてはならなかったりして。

嫌な出来事は、往々にして根性を鍛えるための試練じゃなくて、幸せのために在り方を変えようというメッセージなんだと思う。

 

誰かの言うことを聞いておけばなんとかなる世界はいよいよ終わってゆくように思う。

現に、いま、いろんな人がいろんなことを言っていて、情報も錯綜している。

そのことにパニックを起こして怒っている人も多いんだけど、信じるものを自分の頭と心で選ぶっていうのは、本来、本質的なことだからね。何を信じればいいか分からなくて腹が立つっていうのは、裏を返せば、いままで誰かがいう「これを信じなさーい」に乗っかってたということで。

それが安泰ではないということがわかったのだから、次に乗っかる安泰を血眼で探すのではなくて、そんなものはそもそも無いのやということに気づき、価値観を見直して、心を自立的なあり方にもってゆけるかどうかというのが、アフターコロナの明暗をわける気がするわ。

新しい依存先を探しちゃうと、この乱世では変な宗教にハマったりしかねない。それは、この騒動でもまだ「内なる自分」に気づけなかった人への、次のメッセージなのかもしれないけど。

 

政府も隣人も信じないという孤立ではなくて、自分で考えて、信じるものや信じないものを選ぶということ。

いままで無力感を感じていた人は、自分の力を信じてゆくチャンスになると思うし、何かにしがみついて自分の力を保っていた人は、誇張しないありのままの自分を認めてゆくチャンスになるかもしれない。

魂というのはほんとうに賢いですよね。すべてを知っていて、いろんな障害を仕掛けてくる。

 

巣ごもりは、前の生活に戻るための忍耐ではなくて、ほんとうに前の生活に戻りたいのか、だとしたらどういう在り方をしていきたいのか、少しづつでも考えて変えてゆく学びの時間なのだと思う。