「頑張る」から離れてもいいタイミング
人間、「死ぬこと」と同じくらい怖いのが「自分の存在価値がなくなること」だそうで。
だから、命の危機に晒される状況下では、大富豪だろうと大スターだろうと皆、地位も名誉もプライドも尊厳もかなぐり捨てるようにして、自分の存在価値が脅かされると我を忘れるのが人間なんだと思う。
たとえば、失恋で死にたいくらい追い詰められるのは、相手をなくした喪失感に耐えられないというより、恋人に自分の存在証明を預けていた人ほど、それが自己価値を大きく傷つける出来事になるからだ。
私は今年の頭に立てた目標で、「私が私でいれば、愛はそこに自然とついてくる」と書いたのだけれど、「私が私でいられない」と感じているときでも、愛はいつもここにあって、軸がブレていると愛は注がれないとか、そういう条件の元に現れたり消えたりするものではないということに気がついた。
私の周りの人々は自粛活動をそれなりに楽しんでやっているように見える。
慣れない在宅勤務で四苦八苦していても、それすらちょっとしたネタにしていたりとか。
でも、ここへ来るまで、まじめに「努力と根性」を重ねてきた人の中には、自粛にも「努力と根性」を持ち込んでいる人が少なからずいて。
震災のときもそうだったけど、「頑張れ」「頑張ろう」って言葉をそこかしこで聞くし、まぁ実質的に今まで通りの生活が立ち行かなくなって、苦難の乗り越えどころではあるんだろう。すべての予定が狂ってしまい、調整にてんてこまいな人々もいるだろう。
しかし、「ここが踏ん張りどころ」とばかりに、今までも十分踏ん張ってきたにも関わらず、さらなるド根性のアクセルを踏み込んでいる人は、ちょっと視点を変えてみてはどうだろうかと私は思うわけです。
自分の健闘はじゅうぶん讃えてあげていいけど、地球全体に「ストップ」がかかってしまっている今、ほんとうに頑張りのアクセルをふかさなくてはならないところなのか。
「努力・忍耐」の御旗を掲げて、この停滞期に突撃するのはエネルギーとしてほんとに合ってるのか。
もし「頑張ってない」人を見て心がザラっとしたり、イラついたりするのなら、それは「頑張りたい」は本心ではないってことだと思う。「そうであるべき」に今までと同様、囚われすぎてはいないか。やらなくてはならないことに変わりはなくても、力の入れ方と視点を変えることはできる。
「これを機にやったるぜ」と、新たな目標に燦然と燃えている人はよいと思う。でもそうじゃないなら、もうちょっと自分にやさしくしてあげてもいいんじゃないかと私は思う。
「人に迷惑をかけない」とこには多大なエネルギーを使うけど、自分を犠牲にすることを自分への迷惑だと捉えていない人は多いから。結局思いやりっていうのは、自分に注いで余ったぶんが他者へ溢れるのが正しい形なので、自分へ回すべき思いやりを他者に撒いていると、自分がカラカラな分、見返りを常に求める形になるし、そこに「見返りを求めてはならない」という道徳観まで漬物石のごとく乗っかっている場合、怒りの落としどころが見つからなくて自分を闇雲に責める形になってけっこう悲惨だ。
みんなの願いはシンプル。愛が欲しいし幸せになりたい。
こどももお年寄りもみんなそう。それをみんなで叶えてゆくためには、この乱世で足の引っ張り合いとかジャッジ合戦とかはなるべく少ない方がよくて、そのためには自分の味方でいて、自分を裁いたりせず、やさしくしてあげてほしいと思う。
それが結果的に、他者への優しさに繋がるのだと思う。
愛を忘れそうなとき
例によって会社は休みにならないんだけど、それでも家にいる時間は増えた。
私の周囲のひとたちは、コロナ禍前は日常に忙殺されてできなかった趣味や自己表現をこの機会に楽しんで始めていて、それを自由にネットで発信している。料理をやったり絵を描いたり。もちろん、これは災いであるのだけれど、そういうふうに人々の意識が自分の内側に戻ってゆき、かつてないくらい自分自身となかよくしている人々を目の当たりにするから、ほんとうにわるいことばかりではないんだ。
私はこうなることを少し前から予測していて、だから今、情勢の深刻さとはべつに心がふわっと喜びを感じている。不謹慎なのかもしれないけど。「いいぞ、もっとやれ」って、まわりのみんなにたいして思う。
我慢すること、規律を守ること、明日の生活を考えること、政治を疑うこと。
そういう場面に目を向ければ、いくらでも考えることはある。でも、何に注目するかは自分で選ぶことができるよ。そして、みんな信じないかもしれないけど、注目したものが自分の世界をつくってゆくのだ。
私はそんな中で、友人たちに触発されて、なるべくたくさんブログを書こうと思った。
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もう何年も前だけれど、私はひどい恋愛で心がボロボロに傷ついていた。
冷たい冬の森を裸足で彷徨うような悲痛な日々が続いていて、すっかり愛から遠く離れてしまった私は、ついにちゃんと自分を生かすことさえ難しくなってしまった。
ギリギリで生の淵にぶら下がってるみたいな毎日だった。
朝起きてウイスキーと共に精神薬を流し込み、1日意識を飛ばしてやり過ごすのがやっとだった。
週に1回行く精神科では、薬を強くされる一方で、まともなカウンセリングも受けられず、「断酒セミナー」みたいな的外れな治療を勧められて不信感しかなかったけれど、それでも誰かに自分のことを知ってほしくて通院していた。死んでしまいたいくらい辛い気持ちだったけれど、「男ごときで死ぬな」と喝をいれるもう一人の私がいて、それをよすがになんとか生き延びた。
そんなある日、リビングのソファーに倒れ込んでいたら、突然体があたたかい光のようなものに包まれるのを感じて目を開けた。そこには一体の天使が……いるはずもなく、いつもの本棚と天井しかなかったのだけれど、その光は私のつめたく凍った心にじんわりを入ってきて、ハートを一瞬で満たした。その瞬間、私はとてつもない安心感と安堵感に包まれ、喜びと感謝が溢れるのを感じた。嘘のように穏やかで幸せなその気分は、30分ほど続いて、そして跡形もなく消えた。
あれはきっと、私を守っている目に見えない存在が、私の痛々しさを見かねて「愛のブランケット」をかけてくれたのだと思っている。
「愛はなくなってはいない、ここにある」というメッセージを届けてくれたのだと思っている。
だからって私が突如信仰に目覚めるわけでもなく、債務処理をするような苦痛の日々をそれからしばらく送ることになったけれど。
なぜそのことを突然思い出したのかと言うと、昨晩ベッドでうとうとしていたら、同じような「愛の臨時ボーナス」がちょこっと降ってきたから。ビギナーズラックの大盤振る舞いほどではなかったけれど、じんわり穏やかな波。
べつにいまの私は失恋中でも何でもなく、件の疫病にもかかっておらず(多分)、元気そのものではあるが、病めるときも健やかなるときも愛は必ずここにあって、自分がどんなコンディションでも同じように愛してくれる人たちが周りにはいるということ。
それって世知辛い世の中に足をとられないよう神経を尖らせたりしてると、すぐに忘れてしまうことでもある。
でもたとえ忘れてしまうことがあっても、そのことを思い出せるか、そもそも知らないかでは大きくちがう。
だから、思い出したくなった時にいつでも思い出せるよう、心の引き出しにセットした。
誰だってそう。
生きているってことは、つまり自分への愛だ。
どんなに辛くても、諦めてても、自分のことが大嫌いでも、逆に言えば生きてる以上は愛からは逃げられない。体や心や魂は全力で自分を全うしようとして健気にがんばっている。
そのことを忘れないでいましょうね。
ほんとはみんな休みたい
緊急事態宣言が発令されるちょっと前、民間企業だかフォロワーの多い個人だかの調査で、「緊急事態宣言を発令すべきと思うか否か」という問いに「発令すべき」と回答した人が8割だったらしい。
それで私が思ったのは、「ほんとはみんな休みたいんじゃねーか」ってこと。
回答した人たちは、ちゃんとした社会人で、お勤めをしてて、守るべき家族がいたりして、だからウイルスの脅威から自分と家族を守るため、日々増えてゆく感染者に危機感を感じて、諸外国の二の舞にならないよう感染拡大の措置をいますぐに講じる必要があると、そのような理由で「発令すべき」と言ったんでしょうけど、理由と本音は時として違うってもんで。
「建前と本音」としなかったのは、建前っていうのは人に対する嘘で自分への嘘ではないでしょ。でも「ウイルス怖い」は自分への嘘である可能性もあると思うのだ。
てなわけで、ホンネのホンネの部分では、「ちょっと休みたい」という人々もけっこうな数いるんじゃないかと私は踏んでいる。
だって、何はなくとも仕事を最優先する風潮が日本には根強くて、体調不良も根性論で乗り切るし、心の不調なんて甘えもいいとこ、みたいな考えがいまだまかり通っている社会で「休息」するには、こんな国難に便乗するしかない。
それが実際的な「休息」ではなく、手探りの在宅勤務に変わっただけだったとしても、人間関係を含めて会社で働くことの息の詰まる日常からエスケープしたかった人たちはたくさんいたのではないか。
これは単に働きたくない私の投影だろうか?
しかしそういう国だから、なんでしょうけど、「うちはテレワーク不可能だから」って理由で相変わらず出勤要請してる会社が多くて、朝の山手線の乗車率はさほど変わってないみたい。
かくいう私の会社もそう。私はタテマエもクソもなく、会社に行きたくないでござる党の人間なので「はよ休業にせぇや」と1ミリの罪悪感もなく思っているんだけれども、「電車が動く限り出社せよ」だって。
それは広い視点に立った冷静な判断というより、単に元請けと受注元に頭が上がらないんだろう。
週末の外出自粛はかなり厳しく要請されて、飲み会してる人が吊し上げられる一方で普通に会社は休まず行きなさいって大いなる不条理だけど、これぞまさに日本だなとある意味で感心した。
国も、みんなを補償するほどの金がないらしいからね。だからけっきょく、人の動きを最小限にして感染を抑え込むのか、経済活動を活かすのか、その両者の間で立ち位置が定まってない印象。
じっさい、バランスを取るのはとても難しいことだと思う。なにせ、損害額もとんでもない額である。
人命や国民の健康はもちろん何より大事なことだけど、「お金なんてどうでもいい」とは言えないのでね。経済はある意味で社会の命なので、経済が死ぬことによって人命も脅かされることになる。
だからってダラダラ社会活動を許容していたら、どこまで感染が拡大するかわかんない怖さもあるのだろう。
すべてが未知で、未体験。
でも、終わらないってことはない。
この考えはスピ色が強いので、毛嫌いする人もいるかもしれないけれど、疫病や自然災害の本質にあるのは「地球の(そして個人の)バランスを取ること」だと私は思っている。
経済至上主義に傾きすぎたこと、目に見えるものに固執したこと、思考に寄りすぎて感情を無視してきたこと、エゴに走りすぎたこと、反対に自分を犠牲にしすぎたこと。
いずれにせよ、自分の中に取り残された自分と世界中の人々が向き合うことになり、ここでも自分と向き合えなかった人と、向き合った人の世界はより一層交わらなくなってゆくのかもしれない。
ただこのバランスは、善悪の話ではない。だから、現代人への罰だとか償いっていう理解は私はしていなくて(善悪の発想は単に人間が道徳観から作り出したものだと思うから)
ただ偉大なる陰陽の満ち欠けの、その巡りの一過程に過ぎない。
すべてはそういうふうにできているので、静かな気持ちで出来事を見つめていても大丈夫だということ。
でも人間には感情があるので、そのコントラストの色濃さが苦かったり甘かったりの人生の深淵になるわけですね。
コントラストを通して、自分を知ってゆく、自分と出会ってゆく旅をしているのだと思う。
アガること、ほっとすること。
最近またコスメ熱が再燃しており、お宝情報(死語)を探してネットクルーズの日々。
自粛ムードでも仕事には行かねばならず、できることのなかで楽しみを見つけようってなったとき、いちばんに目が行くのがメイクだ。
だいたいコロナ以前に仕事がつまんなさすぎて超嫌々になってしばらく経つんだけど、いま辞められないなら辞められないなりに、通勤というルーティンのなかでささやかな楽しみを見つけようと思い、その頃から顔やファッションなどをちゃんと自分の気にいるように丁寧に整えて会社にいくことにした。
マツゲも昔みたいにビューラーで上げるようにした。マツゲが上がってると顔が女子になるので、気分もちょっと上がる。
しかし、女子には、アガりたいときとほっとしたい時の両方があるのだな。
アガりっぱなしじゃ疲れるし、ほっとしっぱなしじゃ緩む。その加減は心が知っているので、その時々の気分に寄り添って行動を選ばせてあげるのが愛なんだと思う。
2000年代初頭とか、SATCが流行った頃とか、当時の大人の女性の間ではアガりっぱなしのムードが流行ってた。女子たるもの、いかなる時もビシっと背筋を伸ばして、ヒールの靴を履いて、がんがん恋愛して、がむしゃらに働くのがかっこいい、みたいな風潮。
当時の私は呑気な女子高生だったけれど、あれっていま思えばかなりみんな無理してたんだと思う。
無理してるってことは、ドーパミンは出てても、もはや本音の本音はアガってもない、ほっとしてもない、いちばんハードな状態。ハートの声を無視して、「おらおらー!アガれーー!」と、自分に鞭打っているということ。
そういうお姉さん達の背中を見てるから、我々世代もやっぱその余波を引きずってる。
でも、私たちよりすこし世代が下がると、不思議とユルめることも上手になってる。ファッションも、「女の鎧兜」だった前世代とちがって、どこかリラックスしたムードを取り入れるようになってるし、当然上の世代からは甘いとかゆとり世代とかって叩かれることもあるけど、見方を変えれば自分への優しさを見失ってないとも言える。
コスメの話に戻すと、デパートのコスメ売り場はアガる場所の総本山だ。私にとってのワクワク、ときめき、向上心、それらのすべてが満たされるブリブリに波動の高い場所だ。
だから、そこで買う化粧品もアガるもの。夢と希望を与えてくれるもの。
一方で、地元のドラッグストアはほっとする場所のひとつである。ユニクロのダウンでも、毛糸の帽子でも、すっぴんでもよくて、自分をケアするアイテムにいっぱい囲まれて、ほのかな薬品とシャンプーの匂いがして、心が休まる。
ドラッグストアで安い化粧品を買うことは、テキトウな格好で買いにいくことも含めて、頑張らない自分を許すということでもある。デパートへ行ってもっとお金を出せば、より効果の高い、より自分を磨いてくれるアイテムがあるんだけれど、そうじゃなくてもいい、自分を高い場所に押し上げないことを許すってことでもある。「高くない自分」も許すってことであり、それはやっぱり愛だ。
そして、アガりもしない、ほっとしもしないことは、なるべく人生でやりたくないなぁ。
やりたくないと言ってもやらざるを得ないのが人生だし、その葛藤にも学びがいっぱい詰まっていることはわかってるけど、選択肢がある場所では、より自分への愛がある方を選びたい。ワクワクするとか、落ち着くとか。
ていうかこれ書いてて思ったんだけど、だいぶ昔にタモリが、「女性ってのはほんとにドラッグストアが好きだね」と、恐らく某スタジオアルタからの生放送で言っていて、確かにそうだよなぁーと思い、なんとなくその言葉を覚えてた。いままで理由はよくわからなかったんだけど、それって自分をケアする、感覚的に心地よさを与えてくれるアイテムに囲まれてるからじゃないかな。そういうものに吸い寄せられるのが女子なんじゃないかな。
感染症と連帯意識
呑気に桜の写真なんかを撮ったのは先々週で、それからあっというまに某感染症の緊迫度が増し、週末の外出自粛要請が出てしまった。
なんとなく考えや思いがまとまらず、書きたいことはぽつぽつ出てくるのに最後まで書ききることができなくて、下書きばかり増えてしまった。
ネットの情報はぼんやり気分が下がる。
まったくもって悲観的な記事の数々も、錯乱している人々の姿にも。
すこし前だけれど、「どこまでが不要不急かわからないから外出可否のガイドラインを敷いてほしい」という記事をみて、炙り出された人々の焦りと視野狭窄に暗澹たる気分になった。
目的は、人の密集を避けて感染リスクを下げることであって、決して行動のいちいちを線引きをしてジャッジしあうことじゃないのに、やはりそこにフォーカスする層が出てきた。「友達の誕生日会は不要不急の外出か否か」とかさ。何が不要不急なのかは自分でしか決められないし、そもそも要点はそこじゃない。
でもそうなってしまうのは、行動の指針が「感染リスク<世間の目」になってしまっているということだと思う。
当たり前だけど生きる上でのリスクはウイルスだけじゃない。
人に迷惑かける可能性もウイルスだけじゃない。
事故に巻き込まれたり、人間関係のトラブルに巻き込まれたり、病気なんて他にも山ほどある。その上でリスクと必要性を天秤にかけることを、ほんとは誰もが常にやってる。意識化されてないだけで。
でも世界中の意識がウイルスに向かっている今、誰もが多かれ少なかれ、相互監視的になり、また他者の感情の責任を取ろうとしている。他人に不快感を与えて村八分に遭わないように細心の注意を払っている。自分の中に「誰かの目」が生きている。とくに、ふだんからその傾向が強い人はとくに。こうなると、もはや敵はウイルスではない。
これはあるカウンセラーがブログに書いてたんだけども、世相が緊迫してくると人は善悪判断の感情が強くなって、他人をジャッジしたくなるらしい。だから私もそうかもしれない。
自粛要請を無視して遊びに行く人をバッシングするのも、何かってと犯人を作ってバッシングに走る人たちに冷ややかな非難の目を向けることも、同じ精神構造なのかもしれない。
「外出可否のガイドラインを決めてほしい」
という人が、平素から自分の行動の責任を誰かにとってもらいたい傾向の強い人なのだとしたら、
「自分のことを何でも人に決めてもらおうとする人」にイライラしている私は、自分の中の依存的な要素を憎んでいるのかもしれなかった。
そういう個々の内面、とくに未消化の感情がこういう事態に顕在化すると思う。
なんか暗い話ばっかり書いちゃったけど。
今件にかんしては、個人の感情レベルで見たら辛い思いをしている人がたくさんいて、だから手放しに「すべて起こるべくして起こっているのです」とか言っちゃうのはたぶん無神経なのだ。
だけど、同時に、いろいろな「強制力」を通して、かつての社会常識や自分の生き方を見直すきっかけになってはいると思う。不可能と思ってたことが可能だとわかったり。無理を強いられていたことから解放されたり。
やっぱり精神論だけじゃなく、生活や常識の変更を余儀なくされて初めて向き合えることがあるのは事実だと思う。
ネガティブな出来事から学ぶことがたくさんあるのだと思う。そういう意味での、「すべてうまくいく」であり、いろいろあっても人間は大丈夫なのだということを、ほんとうはみんな魂で知っている。なんとなくそんな気がする。
仕事とスピリチュアル
仕事が忙しかったりすると、どうも軸がずれがちだ。
時間が差し迫ってる上に面倒くさい案件を投げられ、しかも別件のミスを咎められたりするとぐだぐだに空回りしてしまう。焦りと不安に支配されて、帰りの電車でもぼんやり苦しい。
こういう気持ちを、デパートで働いていたときは毎日抱いていた。というか支配されていた。休みの日も、なんとなく気持ちが塞いでいて、何をやっても楽しくないという状態が続いた。5年以上前のことだけど。
デパートは私にとってハードな職場だった。
格式のある老舗デパートだったから、お客様は神様もいいところで、風圧で死人が出るくらいの神風を吹かせまくっている人も少なくなく、マネージャーもそのストレスとプレッシャーを末端の販売員にぶつけてくるし、現場全体がおおらかさを全く失っていて、苦しい職場だった。
ちょっと前にドコモの店員かなんかが、メモにお客さんの悪口を書いたのがバレてニュースにまでなった事件があったけど、接客をやってる人間なんて、それの何倍もひどい暴言をお客さんから当たり前に吐かれている。そんな日常茶飯事は仕事だからって黙殺されて、店員の反撃(あれはエネルギーが傷つきすぎたゆえの反撃だと思う)はあんなに取り沙汰されることに、この国の「お客様は神様精神」の悪い意味での根深さを感じて悲しい気持ちになった。「神に唾を吐くなんて!!!」みたいなトーンで批判されるのを目にするたび、やってらんねーなと思ったものだ。
あれって多分、追い詰められて行き場を失った怒り(=個人の感情)の発露だから、「こんなことはあってはならない、許されないことです(=仕事としてもっと自分を殺しなさい)」っていう怪我人に石を投げるような糾弾を緩めない限り、似たようなことは起こり続けるだろうと思う。
っていうか、その精神構造そものもが、あのような事件を起こしたんだと思っている。
私も経験があるからわかるけど、お客様を神様にしちゃうと、お客様を人間として見れなくなる。つまり、愛をもって見れなくなるということ。これはじつにパラドキシカルな現象。相手を自分より上に置きすぎて関係の均衡を崩すことで、相手はただの恐れの対象になる。
自分の粗を見つけて責めるもの、罰するもの、になってしまう。そうすると、人は守りに入る。「やってあげたいから」でなく「責められたくないから(それによって自分を責めたくないから)」が行動の指針になる。
「満足してもらいたい」「要望を叶えてあげたい」という心からの思いやりは、愛の目を通して生まれる気持ちで、自分を責めていない元気な状態を基盤にしていると思う。
つまり、上質なサービスのための自己犠牲の強要が、逆に、サービスを通して相手がいちばん欲しがっている広い意味での「愛」を提供できなくしているということ。
このことを私は接客業で学んだけど、接客にかかわらず、すべての仕事に言えることかもね。
相手はお客さんじゃなくて上司かもしれないけど。
とにかく自分自身の軸を失った状態で働き続けるとまじでろくなことになんない。
「これ以上奪われないこと」「失敗しないこと」に必死で、ハートで相手を思いやれないから、良い仕事はできないし、かろうじて器用に(あるいは根性で)こなしても幸せではない。そして金のためと割り切って大事な時間を差し出して、わずかな自由時間を酒で潰したりする羽目になる(実体験)
でもろくでもねーなと思う経験からもこのように学びがあるので、世の中はよくできているなと思う。
私は今の仕事がもうそろそろ潮時な気がしているんだけど、これって何も業務上の達成感とか、やりがいとか、ましてや向上心とか、逆に嫌で嫌で逃げだしたいとかそういうんでもなくて、「学びがそろそろ終了します」感が日増しに大きくなっている。言い方は悪いんだけど、「人生の無駄」感が出てきているというか。関係性を通して見つけられるものが少なくなってきて、もういいでしょってどっかで思っている私がいる。仕事において、砂漠のような不毛さを感じることが多い。
そして、日に日につまらないことができなくなっている。お金のためと割り切れない。
つまらないことをやめて、徹底して自分のために生きて、そしたらそのうち人の満足のためになにかやりたくなるような予感がある。そしてそういうふうに進んでゆきたいとも思っている。
なので、もうちょっとかな。今の私、流れに任せていたら、来るべきタイミングで自然と離れることが自分でわかっているので。
男と女シリーズ①
(気を抜くと忘れそうになること)
「自分を責める必要はない」を「自分を責めてはならない」に持っていかないこと。
感情は生まれてしまったら昇華させるしかなくて、「ないこと」にはできない。
ネガティブな気持ちを抱いたときに、そんなふうに思う必要がないことを自分に教えてあげることは大切だけど、「大丈夫、私は私を責めてなんかない」と言い聞かせるのは逆効果で、気持ちの逃げ場が無くなって、エネルギーは滞ったまま心がぼんやり塞いでしまう。それは自分へのポジティブ・ハラスメントに他なりません。
それは、胸の苦しさ、圧迫感が教えてくれる。なんだか気持ちが晴れない、もやもやが続く、それは押し殺している感情があるというサインだということに、最近気がついた。
「あ、ポジハラやってませんか」って自分に問いかけると、まぁだいたいやってるよね。
私の場合は、「清い人間でありたい」というところよりも、「私はそんなに弱くない」「タフでありたい」という意識によって、私自身の発する弱音を認めにくいというマインドの癖がある。
で、ここからは、男性性と女性性の話。
子供の頃から、いじめられても、集団で無視をされても、それで学校を休むとかは自分で許せなくて、「痛くも痒くもないんじゃ」みたいな顔をして過ごしていたから、引っ込みがつかなくなって、ヤンキーでもなんでもないのにトイレで5対1でタイマンを張る羽目になったりしていた。
あ、そうだ思い出したんだけどあの日の放課後、私をトイレに呼び出した同級生の女子たちは5人でぞろぞろ私のところにやってきて、「話があるんだけど」とか言うので、「ややこしいわ、一人ずつ来い」って言ったら「それは無理!」って言ったんだった。そんなに怖いなら喧嘩なんか売らなきゃいいのに。
でも私はとても孤独で、悲しくて、彼女たちをトイレで罵りながら、なんでこんなことになったんだろうと、泣きたい気持ちでいた。相手陣営の5人のうちの3人くらいが泣いていて、でも泣きたいのはこっちなんだけどと思っていた。
高校生になったら、まわりの女の子たちは、彼氏に嫌な目に遭わされたら私に言いつけに来るようになった。そのたびに、私は女の子を泣かした野郎を部室の裏に呼び出して、ズタズタに説教をするという不毛な任侠道を歩む羽目になった。美術部だったんですけど私。これ美術部の仕事じゃなくね?っていう。
当時の私は「男らしいタフさと、アートや文学への造詣もある繊細さを兼ね備えた男子」が最強の理想だと思っていた。でもド田舎の高校にそんなハイブリッド男子は一人もおらず、さらに言うならその理想って完全に自分を男にした姿だった。
そういう男子に女子として愛されたいと思っていた。私は私を愛したかったのだ。ほんとうはね。
ちゃんと女として生きるようになってからも、つきあった相手は、料理家とか画家とか、バンドやってたり、占いが趣味だったり、花の栽培が趣味だったり、女性的なエネルギーの強い人がほとんど。
実際に彼らは良くも悪くも私より女っぽくて、クリエイティブで優しい態度が好きだった反面、「男のくせに恥ずかしくねぇのか、そのザマは!」と、自分の中の若頭が顔を出して憤慨したことも数知れず。
でも彼らの気持ちもわかる。
私はけっきょく女だから、どれだけ見栄を張っても最終的には「だって女だもーん」という逃げ道を自分でちゃんと用意していた。
強さを自分に強いることに疲れたら、ちゃっかり女子に戻って誰かにおんぶしてもらうしたたかさがあった。
でも男子にはその逃げ道がないから。
最初から最後まで男でいるしかないから、男らしさを発揮することに、たぶん女の私よりも責任が伴うんだと思う。
自分が宣告した男っぷりに最後まで追い回されることになるから、最初から無謀な打ち上げ方を回避して手加減した男性性で生きた結果が、局面でのナヨナヨした態度に現れていたのかもしれない。
だから、女性性と男性性を案外器用に使い分けている私はトクだよね。
「男基準の男女平等」が敷かれてから、女子たちもメキメキと強くなって、たぶんその基準がすでに不平等だって気づかずに超頑張っている人がまわりにたくさんいる。女のほうがおそらく根性が座っているから、がんばろうと思えばかなりのところまで頑張れるのだろうな。
私はそういうタイプではないけど、どっちかってと、同性を敵に回さないために、男として振る舞うことが染み付いてしまった気がする。
学校とか職場とかで。男っぽく振る舞ってるほうが、女子たちからは敵認定されにくいから。
女のコスプレもしてるけど、男をデフォルメして表現することもある。それも処世術だった。
まあでも男性性と女性性に関しては、まあまあ納得いくバランスでやってんじゃなかろうか。
ああ!今度こそドーナルグリーソンのこと書くからな!(誰も求めてない件)