ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

「イタい人」は自分の鏡かもね

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人のブログを読んでいたら、「いつも人を見下す彼氏と付き合っているが、どうしたらいいか」という人生相談が目に止まった。

曰く、その彼は、政治的にもモラル的にも偏った思想を持っていて、常に自分が正しいかのように発言し、周囲の人々や組織をとにかく馬鹿にすると。職場の人のこともみんな馬鹿扱いしていて、それで彼女が読書を勧めたら、作家もみんな自分より馬鹿だから読まないと言って一切受け付けないそうだ。そんな男との今後をどうしようかっていう相談だった。

将来云々以前に、いま現在彼女がモラハラを受けて心を削られていないかということに私の心配は及んだけれど、それに対する言及はなかった。

「イタい男だな」

というのが、その男に対して最初に持った私の感想だ。

自分のことを自分で認めてあげるという発想がたぶんこれっぽっちもなくて(そういう風に教育されたのかも)、要は自信がなくて、人から見てスゴイ人になって自分を証明したかったんだろうけど、現実の自己評価と人からの評価の間にあるギャップを受け入れることができずに、世間への恨みを内側に溜めているふうに感じたからだ。人に自分を認めさせたくて仕方がないけれど、望んだほどには叶わないから、相手を見下げることでほんのひととき溜飲をさげている。

無駄に目線が高い人というのは、自分への愛に溺れているわけではなくて、愛が欲しくて悲鳴をあげているのだと思う。でも、愛が欲しくて悲鳴をあげるというのも、また自分への愛、生きてゆく希望を捨てていないから出てくる苦しみなのだ。

 

ところで、「イタい」の主語ってなんでしょう。

自分が痛いのか、相手が痛そうに見えるのか。私は前者だと思う。

相手が痛そうに見えるのは、可哀想とか哀れとか痛々しいっていう表現になるはずで、もっといえば「痛々しい」と「イタい」のニュアンスの違い。痛々しいには純粋な憐憫があるけれど、イタいには軽蔑がある。

自分の押し隠したい部分を晒している人を見たとき、人は「イタい」と感じるのではないかと思った。自分にフィードバックされるからこそ、哀れみでなく、より強い「軽蔑」という感情になって現れる。その嫌悪の強さはたぶん「こうなりたくない/いつかなるかもしれない」っていう恐れからくるものだ。

 

私が冒頭の男を「イタい野郎だな」と思ったのは、私にも、人から認められたい、私を理解しない人間を見下したいという気持ちがどこかにあるからに他ならない。

彼の心の動きを想像できるのも、自分の心に手を突っ込むからなわけです。たとえ相手がどんな鬼畜野郎であろうとも、意味はわかる、どこかで共鳴できるということは、深い部分で相手と自分に似た要素を見出しているということ。他者は他者であると同時に、ある部分では自分自身でもあるのね。だから自分を嫌わないことが、人に想像力をもつということに繋がるのね。

 

「イタい」に関して余談なんだけど、女性誌やWEBの記事で、「合コンでイタいと思われるメイク5パターン」とか、「結婚は勘弁!イタい彼女の特徴10」とか、「後輩男子からイタいおばさん認定される着こなし」みたいな煽り記事を一時期そこらじゅうで見かけた。最近はやや落ち着いてきてるようにも見えるけど、今でもたまに見かける。正直、そのセンスにこそ流行遅れ感が漂っているんだけれども。

人間、ポジティブな情報よりネガティブな情報に目が行くらしいし、とくに集団意識の強い日本人にとって「イタい人」=「あなたは人から蔑まれ、コミュニティから疎外され、愛を貰えなくなる危険性があります」というメッセージは、PV数を稼ぐためにこの上ないパワーワードになるんだろう。

しかもそれが一番刺さるのが、自由より協調を叩き込まれながら「自分らしさ」にも執着があり、社会的にボロを出せない責任感世代にある私たちなんじゃないかと勝手に想像してる。板挟み世代なのだ。なんだかんだで私もよくページを開いてしまい、振り回されたものだ。

 

でも最近の良い兆候として、大多数と違う生き方とかセンスを持っていても、疎外されずに、居場所を保ち続ける流れができはじめたように感じる。っていうかその「大多数」というのがあらゆる軸においてゆるやかに崩壊してきつつあるというか。

こういうのは若い人たちをみていたらとくに思う。「若い子の考えることは理解できんわ」なんつって先輩風を吹かせつつも、ほんとうはいいなぁと思う。

上の世代が押し付けてくる「お荷物」を軽やかにスルーしながら、新しい機軸をうちたててゆく彼らをみているのは痛快だ。(私の世代は、そのお荷物をガン無視することができずに、渋々引き継いだ節がある。だから迷いがあるのだ)

そうして、私も愛を持って、自分にも人にも光を見出しながら軽やかにやってゆきたい。

そしてなるべくいろんなジャッジを捨ててゆけたら。