ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

「頑張る」から離れてもいいタイミング

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人間、「死ぬこと」と同じくらい怖いのが「自分の存在価値がなくなること」だそうで。

だから、命の危機に晒される状況下では、大富豪だろうと大スターだろうと皆、地位も名誉もプライドも尊厳もかなぐり捨てるようにして、自分の存在価値が脅かされると我を忘れるのが人間なんだと思う。

たとえば、失恋で死にたいくらい追い詰められるのは、相手をなくした喪失感に耐えられないというより、恋人に自分の存在証明を預けていた人ほど、それが自己価値を大きく傷つける出来事になるからだ。

 

私は今年の頭に立てた目標で、「私が私でいれば、愛はそこに自然とついてくる」と書いたのだけれど、「私が私でいられない」と感じているときでも、愛はいつもここにあって、軸がブレていると愛は注がれないとか、そういう条件の元に現れたり消えたりするものではないということに気がついた。

 

 

私の周りの人々は自粛活動をそれなりに楽しんでやっているように見える。

慣れない在宅勤務で四苦八苦していても、それすらちょっとしたネタにしていたりとか。

でも、ここへ来るまで、まじめに「努力と根性」を重ねてきた人の中には、自粛にも「努力と根性」を持ち込んでいる人が少なからずいて。

震災のときもそうだったけど、「頑張れ」「頑張ろう」って言葉をそこかしこで聞くし、まぁ実質的に今まで通りの生活が立ち行かなくなって、苦難の乗り越えどころではあるんだろう。すべての予定が狂ってしまい、調整にてんてこまいな人々もいるだろう。

しかし、「ここが踏ん張りどころ」とばかりに、今までも十分踏ん張ってきたにも関わらず、さらなるド根性のアクセルを踏み込んでいる人は、ちょっと視点を変えてみてはどうだろうかと私は思うわけです。

自分の健闘はじゅうぶん讃えてあげていいけど、地球全体に「ストップ」がかかってしまっている今、ほんとうに頑張りのアクセルをふかさなくてはならないところなのか。

「努力・忍耐」の御旗を掲げて、この停滞期に突撃するのはエネルギーとしてほんとに合ってるのか。

もし「頑張ってない」人を見て心がザラっとしたり、イラついたりするのなら、それは「頑張りたい」は本心ではないってことだと思う。「そうであるべき」に今までと同様、囚われすぎてはいないか。やらなくてはならないことに変わりはなくても、力の入れ方と視点を変えることはできる。

「これを機にやったるぜ」と、新たな目標に燦然と燃えている人はよいと思う。でもそうじゃないなら、もうちょっと自分にやさしくしてあげてもいいんじゃないかと私は思う。

 

「人に迷惑をかけない」とこには多大なエネルギーを使うけど、自分を犠牲にすることを自分への迷惑だと捉えていない人は多いから。結局思いやりっていうのは、自分に注いで余ったぶんが他者へ溢れるのが正しい形なので、自分へ回すべき思いやりを他者に撒いていると、自分がカラカラな分、見返りを常に求める形になるし、そこに「見返りを求めてはならない」という道徳観まで漬物石のごとく乗っかっている場合、怒りの落としどころが見つからなくて自分を闇雲に責める形になってけっこう悲惨だ。

 

みんなの願いはシンプル。愛が欲しいし幸せになりたい。

こどももお年寄りもみんなそう。それをみんなで叶えてゆくためには、この乱世で足の引っ張り合いとかジャッジ合戦とかはなるべく少ない方がよくて、そのためには自分の味方でいて、自分を裁いたりせず、やさしくしてあげてほしいと思う。

それが結果的に、他者への優しさに繋がるのだと思う。