ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

ほんとはみんな休みたい

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緊急事態宣言が発令されるちょっと前、民間企業だかフォロワーの多い個人だかの調査で、「緊急事態宣言を発令すべきと思うか否か」という問いに「発令すべき」と回答した人が8割だったらしい。

それで私が思ったのは、「ほんとはみんな休みたいんじゃねーか」ってこと。

回答した人たちは、ちゃんとした社会人で、お勤めをしてて、守るべき家族がいたりして、だからウイルスの脅威から自分と家族を守るため、日々増えてゆく感染者に危機感を感じて、諸外国の二の舞にならないよう感染拡大の措置をいますぐに講じる必要があると、そのような理由で「発令すべき」と言ったんでしょうけど、理由と本音は時として違うってもんで。

「建前と本音」としなかったのは、建前っていうのは人に対する嘘で自分への嘘ではないでしょ。でも「ウイルス怖い」は自分への嘘である可能性もあると思うのだ。

てなわけで、ホンネのホンネの部分では、「ちょっと休みたい」という人々もけっこうな数いるんじゃないかと私は踏んでいる。

だって、何はなくとも仕事を最優先する風潮が日本には根強くて、体調不良も根性論で乗り切るし、心の不調なんて甘えもいいとこ、みたいな考えがいまだまかり通っている社会で「休息」するには、こんな国難に便乗するしかない。

それが実際的な「休息」ではなく、手探りの在宅勤務に変わっただけだったとしても、人間関係を含めて会社で働くことの息の詰まる日常からエスケープしたかった人たちはたくさんいたのではないか。

これは単に働きたくない私の投影だろうか?

 

しかしそういう国だから、なんでしょうけど、「うちはテレワーク不可能だから」って理由で相変わらず出勤要請してる会社が多くて、朝の山手線の乗車率はさほど変わってないみたい。

かくいう私の会社もそう。私はタテマエもクソもなく、会社に行きたくないでござる党の人間なので「はよ休業にせぇや」と1ミリの罪悪感もなく思っているんだけれども、「電車が動く限り出社せよ」だって。

それは広い視点に立った冷静な判断というより、単に元請けと受注元に頭が上がらないんだろう。

週末の外出自粛はかなり厳しく要請されて、飲み会してる人が吊し上げられる一方で普通に会社は休まず行きなさいって大いなる不条理だけど、これぞまさに日本だなとある意味で感心した。

国も、みんなを補償するほどの金がないらしいからね。だからけっきょく、人の動きを最小限にして感染を抑え込むのか、経済活動を活かすのか、その両者の間で立ち位置が定まってない印象。

じっさい、バランスを取るのはとても難しいことだと思う。なにせ、損害額もとんでもない額である。

人命や国民の健康はもちろん何より大事なことだけど、「お金なんてどうでもいい」とは言えないのでね。経済はある意味で社会の命なので、経済が死ぬことによって人命も脅かされることになる。 

だからってダラダラ社会活動を許容していたら、どこまで感染が拡大するかわかんない怖さもあるのだろう。

 

すべてが未知で、未体験。

でも、終わらないってことはない。

 

この考えはスピ色が強いので、毛嫌いする人もいるかもしれないけれど、疫病や自然災害の本質にあるのは「地球の(そして個人の)バランスを取ること」だと私は思っている。

経済至上主義に傾きすぎたこと、目に見えるものに固執したこと、思考に寄りすぎて感情を無視してきたこと、エゴに走りすぎたこと、反対に自分を犠牲にしすぎたこと。

いずれにせよ、自分の中に取り残された自分と世界中の人々が向き合うことになり、ここでも自分と向き合えなかった人と、向き合った人の世界はより一層交わらなくなってゆくのかもしれない。

ただこのバランスは、善悪の話ではない。だから、現代人への罰だとか償いっていう理解は私はしていなくて(善悪の発想は単に人間が道徳観から作り出したものだと思うから)

ただ偉大なる陰陽の満ち欠けの、その巡りの一過程に過ぎない。

すべてはそういうふうにできているので、静かな気持ちで出来事を見つめていても大丈夫だということ。

でも人間には感情があるので、そのコントラストの色濃さが苦かったり甘かったりの人生の深淵になるわけですね。

コントラストを通して、自分を知ってゆく、自分と出会ってゆく旅をしているのだと思う。