ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

感染症と連帯意識

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呑気に桜の写真なんかを撮ったのは先々週で、それからあっというまに某感染症の緊迫度が増し、週末の外出自粛要請が出てしまった。

 

なんとなく考えや思いがまとまらず、書きたいことはぽつぽつ出てくるのに最後まで書ききることができなくて、下書きばかり増えてしまった。

 

ネットの情報はぼんやり気分が下がる。

まったくもって悲観的な記事の数々も、錯乱している人々の姿にも。

すこし前だけれど、「どこまでが不要不急かわからないから外出可否のガイドラインを敷いてほしい」という記事をみて、炙り出された人々の焦りと視野狭窄に暗澹たる気分になった。

目的は、人の密集を避けて感染リスクを下げることであって、決して行動のいちいちを線引きをしてジャッジしあうことじゃないのに、やはりそこにフォーカスする層が出てきた。「友達の誕生日会は不要不急の外出か否か」とかさ。何が不要不急なのかは自分でしか決められないし、そもそも要点はそこじゃない。

でもそうなってしまうのは、行動の指針が「感染リスク<世間の目」になってしまっているということだと思う。

 

当たり前だけど生きる上でのリスクはウイルスだけじゃない。

人に迷惑かける可能性もウイルスだけじゃない。

事故に巻き込まれたり、人間関係のトラブルに巻き込まれたり、病気なんて他にも山ほどある。その上でリスクと必要性を天秤にかけることを、ほんとは誰もが常にやってる。意識化されてないだけで。

でも世界中の意識がウイルスに向かっている今、誰もが多かれ少なかれ、相互監視的になり、また他者の感情の責任を取ろうとしている。他人に不快感を与えて村八分に遭わないように細心の注意を払っている。自分の中に「誰かの目」が生きている。とくに、ふだんからその傾向が強い人はとくに。こうなると、もはや敵はウイルスではない。

 

これはあるカウンセラーがブログに書いてたんだけども、世相が緊迫してくると人は善悪判断の感情が強くなって、他人をジャッジしたくなるらしい。だから私もそうかもしれない。

自粛要請を無視して遊びに行く人をバッシングするのも、何かってと犯人を作ってバッシングに走る人たちに冷ややかな非難の目を向けることも、同じ精神構造なのかもしれない。

 

 

「外出可否のガイドラインを決めてほしい」

という人が、平素から自分の行動の責任を誰かにとってもらいたい傾向の強い人なのだとしたら、

「自分のことを何でも人に決めてもらおうとする人」にイライラしている私は、自分の中の依存的な要素を憎んでいるのかもしれなかった。

そういう個々の内面、とくに未消化の感情がこういう事態に顕在化すると思う。

 

なんか暗い話ばっかり書いちゃったけど。

今件にかんしては、個人の感情レベルで見たら辛い思いをしている人がたくさんいて、だから手放しに「すべて起こるべくして起こっているのです」とか言っちゃうのはたぶん無神経なのだ。

だけど、同時に、いろいろな「強制力」を通して、かつての社会常識や自分の生き方を見直すきっかけになってはいると思う。不可能と思ってたことが可能だとわかったり。無理を強いられていたことから解放されたり。

やっぱり精神論だけじゃなく、生活や常識の変更を余儀なくされて初めて向き合えることがあるのは事実だと思う。

ネガティブな出来事から学ぶことがたくさんあるのだと思う。そういう意味での、「すべてうまくいく」であり、いろいろあっても人間は大丈夫なのだということを、ほんとうはみんな魂で知っている。なんとなくそんな気がする。