ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

愛されたい=生きたい。〜哀しみの美人論〜

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あなたが恐れているものは何か、それをブログに書くように。

という課題が通っているスピリチュアルの講座で出された。 

さすが、そのへんの「キラスピ」とは一線を画すみちよ先生の講座は芯を食ってくるよな、自分が一番見たくない自分に焦点を当てて、それを外に向けて発信せよとは……と慄いたわけですが、人の心に触るワーカーを目指すのだったら、自分と極限まで向き合わなくちゃならないということも、ほんとうはわかっている。

綺麗事を言ったり、心ない言葉を吐いたり、お客さんを信者扱いしてしまうスピ系の人たちは、もしかすると自分のなかに手をつっこみ足りないのかもしれないとも思う。

「軸を保つ」とは、「理想の私、理想の精神状態」を釘で打ち付けて固定することじゃなくて、揺れる自分もまるごと引き受けること。そしてそれは、自分への嘘がもたらす破綻を未然に防いでくれるのかもしれない。

 

 大病も貧困も親の死も経験したことがない私にとって、いちばん怖いことは、自分の価値を失うことだった。

もっと言うと、価値を失って愛されなくなることだった。

 そして、その価値を形成していると私が(勝手に)思い込んでいる要素を失うのが死ぬほど恐ろしかった。

それは若さであり、容姿であり(自惚れではなくて、可愛くない私には価値がないと思い込まされて育ったから)、さらに若い頃は個性であり、価値観でもあった。

それらの「価値」はもれなく他人との比較から成り立っていて(個性にも優劣をつけていた!)、絶えず優越感に浸ったり、劣等感で自我が崩壊したりのエンドレスループを繰り返しては不毛に疲れ果て、しまいには輝かしいものに溢れた外の世界を見るのが嫌になって、自分を自分の殻に囲いこんでしまったのだった。

 

ゆるやかに殻から出たり、また閉じ籠ったりを繰り返しながら、すこしずつではあるけれど、私は「私」を脱ぎ捨ててきた。

それには長い時間を要する段階があって、時に、ネガティブな出来事がその着ぐるみを強引に脱がせてくれる。挫折と呼ばれるかもしれない出来事、がんばっても叶わないことがあると知ったとき。それでも人は生きてゆかなくてはならないから、そんな自分も認めるしかなくなってゆく。

成長というのは、できないことをできるようになることだけじゃなくて、無根拠な万能感の夢から痛みと共に醒め、自分の不完全さを受け入れることでもあるのかもしれない。

(それは同時に、無根拠な無力感を克服して自分の力を信じてゆくことでもある)

 

とは言え妙齢35歳。

やはり歳をとるのが怖い。

「おばちゃん」という言葉が怖すぎるあまり自虐に走って自己防衛しながら、忍び寄る容色の衰えに戦々恐々の日々である。

あの頃に比べると、私はかなり自由になった。

「他人からどう見られるか」を逆算して聴く音楽や観る映画を選んだりする不自由な自意識はとっくの昔に捨てているし、あの頃よりたくさんの「苦手」を受け入れて、それでも仕方ないよね、と開き直って生きている。

 

それなのにだ。

こと容姿に関しては、いまだ私の内面にはガッチリ内在化した「他人軸」の評価基準があって、それが絶えず「そんな太ったら価値がないぞ」「なんか顔たるんでね?お前も終わりだな」と私を脅しつけるのだ。

その悪魔は、風潮を形作っている実態のない誰かの顔をしていたり、ときに憧れていた人の顔をしていたり、電車で前に座るイケメンの顔をしていたり、すれちがった見ず知らずの美人の顔をしていたり、幼い私を取り囲んでいた大人たちの顔をしていて、最終的には母の顔になる。

 

「可愛い可愛い」と、情緒不安定な母にそればかり言われて育った私は、「可愛くない私には価値がないのだ」という自意識を刷り込まれて大人になった。

「私はブスになりたくないんじゃなくて、容姿で自分の価値を計る癖をやめたいのだ」

そのことに気づいたのは10年も前だが、じっさいに克服できたかと言うととても難しい。

「愛」に関する観念は、とてもしぶとい。と、思う。

なぜなら人間は、呼吸するに等しく愛を求める生き物で、そして酸素のように「愛」は外から得るものだと思っている。

無論、それは無料ではなくて、とびきりの努力に裏打ちされた価値と引き換えに得るものだ。と、ほとんどの人がきっとそのように思っている。

必死で仕事をして出世するのも、勉強をがんばって偏差値の高い大学を目指すのも、SNSのフォロワーを増やそうとするのも、自分を抑えて「良い人」であろうとするのも、そして容姿を磨くのも。

 価値のある自分になれば誰かが愛してくれる、あるいは、他人に認められる自分になることができれば、私は私を愛することができるのに。

そんな風に、食べ物や空気を求めるようにして、人生をかけて愛を求め続けるのが人間なのかもしれない。

でも人の気持ちはコントロールできないし、世間の価値基準だってコントロールできない。

だから、自分以外の何かに価値基準を依存しているかぎり、それに振り回され続けることになる。

たったひとつ言えるのは、「優れた人間でなくてはならない」という幻想に縛られて、あらゆる条件をサバイブした先に求めるのが愛と自由なら、

その条件から解き放たれて、いますぐにまっさらな自分に立ち戻ったとしても、愛と自由は手に入るということだ。

 

 どんな時でも、どんな自分でも、最大限の愛を注げるようになりたい。

不足感や不全感からでなく、満たされた基盤からより気持ちいい場所を選べるようになりたい。

歳を取ろうが、誰からブスだと言われようが、女として見られなくなろうが、自分が自分でいることの意味や色合には変わりがないような、そういう美しさを身に付けたい。

「世間が求める女」でいることから解き放たれて、思うままに「本当の女」でいたい。

 

ちなみに、「美容道」もどうせなら楽しくやろう、ということで、スピリチュアルダイエットを計画中。

愛も美しさも手に入る!引き寄せダイエット(キラキラ)

コケてもうまく行っても面白い。そういう視点なのではないかと思うんですよ、人生を楽しむというのは。