ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

「軸を持つこと」と「壁を張り巡らせること」の違い

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 さいきん思った「自分軸を持つこと」と「排他的になること」の違いについて。

このふたつは似て非なるものだけれど、私も含めて勘違いしやすいポイントなのではないか。本質的なことを言えば、愛があるか無いかかもしれない。あるいは、安心しているかしていないか。

例えば、「媚びない」と一言で言っても、「他を尊重しつつも最終的に自分を優先させる」「他を頭から受け入れずに我を通す」では心の成り立ちが違うのだと思う。

自分に愛を持った結果、その愛で他者にも理解を示すけれど自分の心の声をいちばん大切にするのか、それとも愛を取りっぱぐれた意識で「これ以上奪われたく無い」という防御の姿勢から排他的になるのか。つまり後者は他人軸でもある。

 

このふたつの違いってものすごい大きいんだけど、けっこうどちらも「我が道をゆく」とかって一括りにされている気がする。

 

しかし人間誰しも、愛のある状態、ない状態、もれなく両方経験するから「愛がないことは悪だ」という言い方はできないよ。

あと、我慢を続けた人が「自分愛」に揺り戻される過程ですごく我儘な状態を通過することもあるかもしれないから。

 

なぜ「損してる」意識で生きなくてはならなくなったか、理由がありますよね。

それは親や環境によって思い込まされた、「ありのままの自分ではいられない」という自己否定が根底にあったりする。それが被害者的エゴイスティックなな生き方に繋がってしまうことが本当によくあると思う。

 

 

「自意識過剰な人が嫌い」って人は多いと思うんだけれど、それは自分にも自意識があるからなのね。

「ほんとうは私もこうありたい」かもしれないし、「自分がこんな風に生きることは許されない」かもしれないけれど、どっちにせよ根本には「私だって愛を求めたい」がある。

だから、ブリブリに「私を愛して!!!」を態度で垂れ流し続ける人々のことを「あの人は自意識過剰だね」って嫌っても、態度で出すか出さないかの違いであって、相手は自分と同じものを持っている鏡なわけです。

そしてそれは、「自分にもっと愛をあげていいよ」というサインかもしれません。

 

みんな個を持った別の生き物であると同時に、みんながひとつ。人間の魂の姿に違いはなくて、愛でできている。

例えば犯罪者だって愛を求めている。私と同じようにして。

犯罪行為というのも愛の不足から来る行いであることが往々にしてあって、犯罪に限らず結局人間のすべての行為は愛に紐づいていると私は思う。愛を欲しいから、愛を与えたいから、自分を愛したいから、愛が枯れてしまって苦しいから。

私が働くのも、家事をするのも、好きなものを食べるのも好きな服を買うのも、また腹が立ったり妬んだり誰かを攻撃したくなったりするのも、突き詰めてゆけば「愛」という動機に突き当たります。

犯を犯すのも、それに憤りを感じるのも。

そしてそれはきっとみんながそう。

裏を返せば、孤独を感じるもの自分に無価値観を覚えるのも不安になるのも決して自分だけではない、ということです。

 

それを知っておくだけで、すこし心が楽になるような気がします。覚えておいてね。

 

 

 

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