ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

自分の顔を見なくてもいい日常について

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「鏡のない世界で」

というフレーズが出てくるのは、CHARAの「ミルク」という曲の中で、高校生の時に初めてこの曲をちゃんと聴いた私は、すごい歌詞だなと思った。

「だまって だまって 抱いて 鏡のない世界で」

という歌詞の、

鏡のない世界=自分を客観視して自己批判や比較に晒されることのない世界

という風に、私は解釈した。

人と比べることや、それによって劣等感を持つことや、自分にダメ出しするようなシビアな世界から逃げて無条件に無邪気なままで愛されたいという切実な願いを書いた曲だと思った。

 

この曲のことを最近よく思い出すのは、(ちょっと変な話だけど)毎日マスクをして外を歩く状態が、「鏡のない世界」を擬似的に作ってると思うから。

元々、私はマスクって苦手。

蒸れるしメイクが取れるし、気持ちが病人っぽくなるし、何よりやっぱり顔を隠すっていうのが何かから逃げてる気がして、自分に負けた気がして嫌だった。

それが今や外出するときはなかば強制的にマスクをつけなくてはいけない状態で、その強制力に甘んじて、ふとした瞬間に(車窓とかに映る)気を抜いた自分の顔を見なくてもいい状態に居心地のよさも感じている。

理想の自分と比べなくてもいい。

ほかの誰かと比べなくてもいい。

昔の自分とも比べなくていい。

比べられると思わなくてもいい。

品定めされると思わなくてもいい。

鏡のない世界の安堵感。

 

これは、このコロナ騒ぎにおいて、何気に私にとって「向き合わされてるテーマ」のひとつである。

つまり、この安らぎを知ってしまったら、そっちに行く自由もあるのだよ?ということ。

老けたとか太ったとかでいちいち自分を刺さなくてもいい、人と比べなくてもいい、嫉妬もしなくていい、マスクをしていてもしていなくても、そういう風に自分を守ってあげることも選択できるけど?という示唆。

(そして鏡の世界に逃げ込んだ私は、実際にいくらかは老け込んだしメキメキ太った)

顔が見えないからって気を緩めてはならないと、甘えてはならないと、より一層ストイックに自己鍛錬に励む人もいるだろう。でも私はそっちを迷うことなく選ぶことはしなかった。 

だって、なぜ女の人は綺麗でいたいと思うのでしょう。

もし、人からみて美しくない自分には価値がないと思っていて、愛をもらうための切り札が容姿の美しさとか若さなんだと思っているとして、結果次第で上がったり下がったりする「自己肯定感」を必死で定位置にキープするために美容に励むのだったら、もっとぶっとく根本的に自分への愛を鍛える方法を探したほうが幸せかもしれないよね。

 

失恋直後の女友達がとつぜん綺麗になったりするでしょう。

もちろん、それは全然わるいことではない。

でも人って、愛が枯渇しているからこそ、外見をものすごく綺麗に繕ったりすることもあるのだ。

美しくなれば、喉から手が出るほど欲しい愛を呼び戻せると思っているからですね。

愛が枯渇していれば、必ずしも外見も破れかぶれになるかと言ったらそうではないという話。

 

だからと言って、「外見なんて関係ない。人は内面がすべてです」なんて風紀委員みたいなことが言いたいわけではない。

美しくなる努力をするなら、自分を戒める方向でなく、自分を開放し、元気付ける方向で。

もしその努力がどこか息苦しくて辛いものなら、「なぜ自分は美しくなりたいか」を、いまいちど立ち止まって考えてみるとよいのでは?と、私は思うのでした。

 

 

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