ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

恋の焼け野が原から脱出する方法①〜女子たちよ大志を抱け〜

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前回、女性を傷つける男たちのメンタリティを考察しました。

 

lovefoxx.hatenablog.com

 

今日はその続き、その沼からどうやって抜け出すかを考えてみたいと思います。

つまりこれは、不毛な男女関係に陥る女子のメンタリティの考察でもあります。

グサっとくる表現があるかもしれませんが、どんな状態にもそうならざるを得ない理由があるという前提で、自分を責めずに読んでくださいね。

 

 

女性の好意を栄養に自己肯定(というより自己正当化)している男性たちは、根本的に女性を憎んでいるし、なにより自分のことが嫌いで、女性が自分のために傷つくことで気休めを得ようとしている、というようなことを書きました。

 

じつは、そういう相手になってしまう女性たちもまた、自分のことを嫌っています。

 

いつも同じような不毛な男女関係に陥る「自分嫌い女子」にはある共通項があるように思います。

それは、常に自分を「他人軸」で冷たく批評して、基準を満たせない自分を責めているということです。

他者の基準に完璧に沿うことは、確かめられないという意味でも不可能なので、たえず自己否定感があり、「自分」というものを見失ってしまっています。

 

人の期待に応えるために、もしくは人からの承認をもぎ取るために、めちゃくちゃ頑張る人もいます。

こういう人たちは、キャリアウーマンや、見惚れるような美人、またはモテる人も多いです。

過剰に謙虚な人もいれば、上から目線な人もいます。

一見自信家に見えることもありますが、本当は自信のなさゆえだったりします。

 

逆に、人の期待に応えることを諦めて、そんな自分を心底軽蔑している人もいます。

こういう人たちは、全体的に殺伐とした雰囲気を漂わせていたりします。

こちらも一見すると我が強い人も多く、「人の事なんか考えていなさそう」に見えることもありますが、それもやはり被害者意識の裏返しです。

 

がんばり型からあきらめ型へ移行する人も多いように思います。

 

いうまでもなく、ですが、これも幼少期につけられた傷が原因だったりします。

つまり、「他人軸」の原型は、「親の軸」ということです。

たとえば、家族の中心で無条件の愛情をたっぷり注がれるはずの幼少期に(まぁ、完璧な愛情を注がれて育った子供なんてほぼいないと思いますが)、なんらかの役目を果たさなくてはならなかった場合、それによって親を助けていた場合、

あるいは、学校の成績や容姿など、条件付きの愛情でコントロールされていた場合、

「親の期待に添えるから愛される私=ありのままの私では愛されない」という自己像を持ってしまうことがあります。

また、なんらかの理由でお母さんの情緒が不安定だったりすると、どこに地雷があるかわからない母親の機嫌を常に伺うことになり、「愛されている」という安心感をとてもじゃないけど持てないまま、大人になってしまうこともあるかと思います。

さらに、がんばって役目を果たしても愛されなかった場合、「私には生きる資格がない」とさえ思ってしまったり。

 

そういう女性たちを見ていて私がなんとなく感じていたのは、「世界との接続のユルさ」です。しかしそれはそのまま、「自分との接続のユルさ」だと気づきました。

自分がここにいない、いる価値がわからない、というフワフワ感。

もしくは、たえず自分を何かで牽制している、いっぱいいっぱい感。

 

そんな女性たちが恋する相手というのは、

「無価値な自分の値打ちを上げてくれそうな人」

「嫌いな自分を代わりに愛してくれる人」

です。

刺激的だったり、レベルの高い相手にばかり恋をする人、

もしくは、「好きなタイプは尽くしてくれて連絡がマメな人」みたいな受け身の理想を掲げる人、

自分に依存してくれるダメンズを渡り歩く人、あるいは不倫がやめられない人もいます。

彼女たちは惚れっぽい一方で、自己否定ゆえに、自分に好意を寄せる誠実な男性を見下していたり怖がっていたりもします。

 

そして、そういう「自己否定女子」と、がっちりエネルギーが合ってしまうのが、前編で書いた「自己否定男子」なのです。

自己否定ゆえに死に物狂いの努力をした男性ほどステイタスが高かったりして、(地位だけでなく、博識だったりセンスや話術を磨いていたりして)

「自分の無価値を男性に埋めてもらいたい」女性とマッチングが起こるわけですね。

 

両者は、「恋」という名の憎しみを媒介に、壮絶なマウント合戦を繰り広げます。

「愛」の与え合い、ではなく、「愛」の奪い合いです。(むろん、すべての恋愛にその要素はありますが、より激しいのです)

 

一方的に好きにさせて好意を搾り取るのも、

自己犠牲的に尽くすことで相手を支配しようとするのも、

愛されたいからすぐに体を許すのも、

愛を試すために自分の価値を釣り上げようとするのも、

雑なセックスをするのも、

それでも相手に合わせてしまうのも、

女性経験(男性経験)を自慢するのも、

「尊敬できる人がたまたま既婚者だった」みたいな理由で不倫を繰り返すのも、

モラハラやDVも、それに耐えることも、

すべては「自己否定」「無価値感」がベースにあります。

 

ここで知ってほしいのは、「自己否定」も「無価値感」も、すべては「愛されたいから」生まれる感情だということ。

「ダメな私=愛されるに足りない私=本当は愛されたい私」

です。さらに言うなら、人間だれしも「ありのままで愛されたい」と願っています。

まず、その本音にとことん寄り添ってあげてほしいと思います。

 

「ありのままで愛されたいとか、そんなムシのいい話はねーよ。これだからスピリチュアルはよ」

と、思うかもしれませんが、(思っていたのは昔の私です←)

そのままの自分を愛されたいこと、愛されなかったら傷つくこと、すべて人間として当然の感情です。

恥ずかしいものでもなければ、弱さなんかじゃありません。

それを「ムシがいい」と頭から否定してしまうのも、愛されたいがゆえの予防線なんですよね。

 

自己否定の下にあった、本当の気持ちはなんでしょう?

傷つけられたことへの怒りかもしれません。

では、怒りの下には何があるでしょう。

大切にして欲しかった、わかってほしかった、寄り添って欲しかった、いちばん大事にしてほしかった。

そういう柔らかい気持ちではないでしょうか。

 

 

 

……気合を入れ過ぎて1エントリーで終わりませんでしたので、今回はここまで。

次こそ最終章、具体的な「脱出方法」を考えてゆきたいと思います。

 

 

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