ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

スピリチュアルカウンセラー養成講座を終えて

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紆余曲折を経て1年がかりになったみちよさんの講座が土曜日に終了した。

最後の最後まで、ぬかりなく白熱教室である。

 

そして、日曜日の私は完全な養成講座ロスで抜け殻に。

ていうか私、学校の卒業式で寂しいと思ったことがなくて。友達はいっぱいいたけど、卒業っていうのは寂しさよりもサッパリ感が勝るもだったから、小学校も中学校も高校も、教室で友達と寄せ書き書いたり写真を撮りあったりしてるうちにめんどくさくなったきて、「帰って寝たいな」とか思っていたんですよね。ゲンキンな奴。

 

それなのに養成講座を卒業した私は寂しい。

学校でも職場でも、趣味のサークルであっても、あんなにお互いを晒け出して、そしてそれぞれが受け止める関係というのは他になかったからかもしれない。

とても温かく、懐が深くて愛のあるメンバーに恵まれたし、その中ですこしずつ自分を縛るマインドが取れて、私自身の器が広がったように思う。

スピリチュアルに限らず、カウンセラーの養成講座はネットで探せばたくさん出てきます。

そのほとんどが、テクニックや理論を学ぶ場。みちよさんの講座は、たとえ技術を学ぶ段階になっても、そのベースとなるカウンセラー自身の心の在り方、人間としてのあり方を一貫して問う、ある意味で厳しい講座だった。

それは、「清く正しく生きて波動を高めなければなりません」的な教えとは真逆で、人間としての自分自身をどこまで受容するかということ。自分の怖れや思い込み、囚われにどれだけ気づいて受け入れてゆくことができるかということをどこまでも試されていた。

今振り返ると、ずっとそれについて考えていた一年だった気がする。

(幸い、私はメンタルオタクなのでそういう作業が好きだった。でも自分を刺すトゲに触るのは痛い作業でもあった)

 

仮に霊的な何かに原因があったとしても、人の悩みっていうのは感情があるから生まれる。幸せもまた感情。

「◯◯すべきなんだ」「◯◯すれば幸せになれるんだ」って頭で考えつつ変われなくて苦しいのは、置き去りにされてる感情があるから。

けっきょくのところ、「ありのままで受け入れてほしい」私たちはたくさんの理由で傷ついて大人になって、知らない間にありのままではいられなくなっている。

「いかにも正しく見えるもの」によって封じ込められてしまった「小さな私」に気づいて寄り添うことの大切さ、そのために、カウンセラー自身が自分の感情を置き去りにしないこと。そういう自分への愛をもって、希望をなくしたように見える相手の中の愛を映し出すこと。愛によって不具合を照らし出すこと。

徹底して学んだのは、こういうことだったと思う。

 

 

***

 

という記事を書きかけて寝落ちしたところ、朝が覚めたら2年使ったiPhoneが突然死していた。

電源が入らず、充電器に接続してもウンともスンとも言わないのでクソ暑い最中駅前まで出かける。執念じみた9月の残暑。おかげで、休日半日が機種変更とデータ移行で潰れてしまった。

 

しかし私、少し前からスマホを見る機会を減らそうとしていたのだ。スマホばっかり見てると、どうも情報脳になってしまうので、感じる力を取り戻すために必要以上にiPhone見ないようにしようと思ってた矢先にぶっ壊れるっていうのは一体。

おかげで、半日くらいiPhoneに頼らない時間を過ごすことができたわけ。

意外といけるな、と思った。

 

 

 

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自分と仲良くね。

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インターネットの恋愛記事で、

「裏表のある人は幸せになれないから、愛されるためにも裏の自分を矯正して表の(理想の自分)に近づけるように頑張りましょう」という主旨の話を読んだ。

たとえば2年前の私なら、「そうですよね!頑張らなくちゃ!」と思っていただろうなぁと、そして今でも同じように「頑張らなくちゃ!」と思って、自分のネガ要素を撲滅しようとしてる人はきっとたくさんいて。

私も散々やったからわかるけど、それは苦しい生き方だ。でも、苦しむことが成長だと思ってしまうことも人間にはある。

 

いまの私の考えを述べると、裏表があるのは自分を否定してしまっているからです。「裏」とされている部分には悲しみがあるのかもしれないし、或いは自分の一部を「裏」として扱わなくてはならなくなったのは「ありのままでは愛されない」という思い込みかもしれない。

ほんとうはどれも大切な自分の要素なのに。

いずれにせよ、「愛される」というのは、「自分から愛される」というのがまず先で、それは理想的でない私を否定して素晴らしい誰かになることではなくて、自分のすべてにOKを出すこと。

 

「自分を愛する」という言葉は、耳にタコができるくらい聞かされていたのに、

私はそれをずっと、いまの自分を否定して、素晴らしく思える誰かに変身してその姿に酔うことだと思っていた。

でも結局のところ、どこまでいっても自分は自分だから、「さらに素晴らしい誰か」を目指して人と比べては自己否定を続けることになるし、その中でときおり覚える愛に似た陶酔感というのは、劣等感と背中合わせの優越感に過ぎなかったりする。

頑張れば自分を認められるというのは半分本当かもしれないけれど、頑張っても自分の中の悪魔は追いかけてくる。悪魔の暴走を止めるには、ちょっと角度の違った努力が必要なのね。

 

 

これは私自身の理想の投影かもしれないけれど、世界中のひとびとが、真の意味で「自分を愛せる」ようになったら、あらゆる争いは消えて、戦争も麻薬も犯罪も、出る幕が無くなる。

そんな完璧な世界は3次元には訪れないとしても(なぜなら、ここは分裂を通じて学ぶ場でもあるから)

たとえ未完成のパズルだとしても、ちょっとでも散らばったパーツを集めて埋めてゆきたい。

そういう草の根運動をやっていきたいと思う。

 

昨日は私生活でちょっとゴタっとしたことがあって、相手の感情を引き受けてしまって疲れた。 

しかしよく寝て起きたら新しい朝が来ていて私は元気で、あとは美味しい刺身でも食べて温泉に浸かれば完璧。そしてそんな楽しみを持てることをとても幸せに思った。

 

 

 

 

「怒り」のエネルギー源を癒す

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感情はすべてエネルギーなので、そこにあることを認めて外に出してあげることで昇華してゆきます。

なので、声に出すとか、ノートに書き殴るとか、書き殴ってさらにビリビリに破いて燃やすとか、妄想の中で相手をタコ殴りにするとかって怒りを発散させるのに有効なんだけど。

 

でも、何回発散しても、消えずにしつこく残る怒りとか憎しみっていうのは、「歪んだ解釈」によって自分を責めているのが原因かもしれません。

ちなみに、怒りの元には悲しみがあります。

 

たとえば、「浮気をされて別れた彼氏に対して、何年も怒りが消えない」という場合を例にとってみるとね、

 

●どうせ私は愛されない

●私は本命になんてなれない

●私は太っていて(or痩せすぎていて)魅力がない

●私に魅力がないから浮気をされる

●家事が苦手な私は結婚に不向きな相手だ

●女は若くないと価値がない

●私は馬鹿で何の取り柄もない

●私はつまらない女ですぐに飽きられる

●男はみんな私を雑に扱う

●美人じゃないとまともな恋愛はできない

etc……

 

こういう思い込みが心の中にあると、別れた彼のことを思い出すたびにその思い込みがバチバチに刺激され、鋭いナイフとなって心を傷つけるし、思い込みによってありもしないネガティヴ妄想を爆発させて怒りが再燃してしまうのかもしれない。

そして妄想というのはすごくエネルギーが強いので、出しても出しても毎週水曜にコンビニに並ぶ漫画の新作のように、怒りが湧いて出てくるのかもしれないのです。(なんたる創造性の無駄使い……)

 

さらに恐ろしいことに、思い込みはそれとバレないように感情と思考を支配して、どんどん強化されていくことだってある。

「だって私がババアなのは紛れもない事実じゃない?」

「昨日会った男友達には若い彼女がいた。やっぱり男はみんな若い女が好きなんだ」とかね。

 

 

このように思い込みによって自分を責めていると、いつまでも失恋した時から時間が前に進まなくて、つまり感情が癒されない。

さらに自己攻撃の意識は、よりいっそう自分を責めなくてはならないような状況や相手ばかりを引き寄せてしまうということも起こってくるのだと思います。

 

怒り自体は悪いものではありません。

でも、ネガティブな思い込みはぜんぶ「嘘!」だとわかると、その怒りはただの「怒りちゃん」としてちゃんと成仏してくれるかもしれません。

 

なんでこれを思いついたかっていうと、3年くらい前にフラっと入った焼き鳥屋のオヤジに「おすすめはなんですか?」って聞いたら、「俺はそういうこと聞いてくる奴が一番嫌いなんだよ!全部美味いに決まってるだろ!」と理不尽にキレられた(は?)ことがあってね。

しかも一緒にいた男友達はヘラヘラとしてるばっかりで、全然私を庇ってくれなかった。

 

その店は(当然と言うべきか)とっくに潰れてるんだけど、思い出すたびにいまでもオヤジと男友達に対してムカムカと怒りが込み上げてくる。出しても出してもムカつく。これは一体何なんやと、自分のマインドを調査していたの。

 

オヤジは私の質問が「どうせどれもマズいんだろ?」という意味に聞こえるくらい本当は焼き鳥屋としての自分に自信が無かったんだろうし、友達はとにかく男としてのプライドもかなぐり捨てて保身に走った。

でも私自身も、

●私は愚図でモノの道理がわかってない

●私はコミニュケーションが下手で人を怒らせてしまう

●私の発言は人をイラつかせる

●私は誰からも守ってもらえない

 

という思い込みがあったから、いつまでもじくじくと膿んだ思いを残していたんだなと思い至ったわけですよ。しかもこの意味不明なキレ方って、うちの母が昔によくやってたのね。そーいうことか!と思って大変すっきりしました。

お母さんを怒らせてばっかだったから、「私の発言は人をイラつかせる」と気づかないうちに思い込んでしまっていたのだ。そして、思い出すたびに、自分を責めて傷ついていたのだ。

 

恐れの解除はスピ講座のクラスで散々やったはずなのに、細かく見ていけばまだまだ出てくるのだなぁと思考の力に感心(?)した。

 

これは出てくるたびにiPhoneのメモアプリに残して、「すべて幻想だよーー!」と言い聞かせるようにしています。そして、「すべて幻想だよーー!」と呪文を唱えれば本当に消えてくれるイメージをしています。

なので、ノートなどで怒りの感情を発散させる時に、自分の中に自分を責めるネガティブな思い込みが無いかどうか、併せてよくリサーチしてみると良いかもしれません。

おためしあれ!

 

「軸を持つこと」と「壁を張り巡らせること」の違い

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 さいきん思った「自分軸を持つこと」と「排他的になること」の違いについて。

このふたつは似て非なるものだけれど、私も含めて勘違いしやすいポイントなのではないか。本質的なことを言えば、愛があるか無いかかもしれない。あるいは、安心しているかしていないか。

例えば、「媚びない」と一言で言っても、「他を尊重しつつも最終的に自分を優先させる」「他を頭から受け入れずに我を通す」では心の成り立ちが違うのだと思う。

自分に愛を持った結果、その愛で他者にも理解を示すけれど自分の心の声をいちばん大切にするのか、それとも愛を取りっぱぐれた意識で「これ以上奪われたく無い」という防御の姿勢から排他的になるのか。つまり後者は他人軸でもある。

 

このふたつの違いってものすごい大きいんだけど、けっこうどちらも「我が道をゆく」とかって一括りにされている気がする。

 

しかし人間誰しも、愛のある状態、ない状態、もれなく両方経験するから「愛がないことは悪だ」という言い方はできないよ。

あと、我慢を続けた人が「自分愛」に揺り戻される過程ですごく我儘な状態を通過することもあるかもしれないから。

 

なぜ「損してる」意識で生きなくてはならなくなったか、理由がありますよね。

それは親や環境によって思い込まされた、「ありのままの自分ではいられない」という自己否定が根底にあったりする。それが被害者的エゴイスティックなな生き方に繋がってしまうことが本当によくあると思う。

 

 

「自意識過剰な人が嫌い」って人は多いと思うんだけれど、それは自分にも自意識があるからなのね。

「ほんとうは私もこうありたい」かもしれないし、「自分がこんな風に生きることは許されない」かもしれないけれど、どっちにせよ根本には「私だって愛を求めたい」がある。

だから、ブリブリに「私を愛して!!!」を態度で垂れ流し続ける人々のことを「あの人は自意識過剰だね」って嫌っても、態度で出すか出さないかの違いであって、相手は自分と同じものを持っている鏡なわけです。

そしてそれは、「自分にもっと愛をあげていいよ」というサインかもしれません。

 

みんな個を持った別の生き物であると同時に、みんながひとつ。人間の魂の姿に違いはなくて、愛でできている。

例えば犯罪者だって愛を求めている。私と同じようにして。

犯罪行為というのも愛の不足から来る行いであることが往々にしてあって、犯罪に限らず結局人間のすべての行為は愛に紐づいていると私は思う。愛を欲しいから、愛を与えたいから、自分を愛したいから、愛が枯れてしまって苦しいから。

私が働くのも、家事をするのも、好きなものを食べるのも好きな服を買うのも、また腹が立ったり妬んだり誰かを攻撃したくなったりするのも、突き詰めてゆけば「愛」という動機に突き当たります。

犯を犯すのも、それに憤りを感じるのも。

そしてそれはきっとみんながそう。

裏を返せば、孤独を感じるもの自分に無価値観を覚えるのも不安になるのも決して自分だけではない、ということです。

 

それを知っておくだけで、すこし心が楽になるような気がします。覚えておいてね。

 

 

 

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スピリチュアルマラソンは走らなくてもいい〜「無条件の愛」は自分から自分へ〜

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感情ってエネルギーです。

ない場所からは流れてゆきません。

 

「スピリチュアル」と呼ばれるものの概念や考え方を調べるために、本やブログを読んでいるんだけれど、一般的には「与えなさい」「感謝をしなさい」「無条件の愛を注ぎなさい」といった教えが多くあるように思います(私のバイアスもあるかと思います)

 

セミナーを開いたり、また個人の活動を通してそういう価値観を提唱している方は現に精神的にも経済的にも豊かで、「与える」というミッションのなかにさらなる豊かさを見出せるフェーズにいるので問題ないと思う。

しかし、高額な代金を支払ってセミナーに通ったり、セッションを受けたりする人たちは、「幸せが欲しい」から通ってるわけで、もっと言えば満たされてなかったり、不安があったり、迷いがあったりするわけね。

つまり自分が「欲しい」の段階にいるということ。

欲しいから与える、欲しいから感謝する、自分が愛されたいから無条件の愛を注ごうとする(この時点で無条件ではないという破綻が生じます)ということになるんだけど、そうなると、望んだリターンが無かったとき、腹が立ったりモヤモヤしたり「なんで私ばっかり」「こんなに頑張ってるのになぜ」という被害者意識が芽生えるわけです。

実際、心が満たされない時に無理やり他人に愛を注ごうとしても、心がザワっとして、そこに嘘があることを教えてくれるはずです。

 

さらに信心深い人になると、そういう自分の「怒り」まで否定します。

「自分の与え方が足りないんだ」とか「見返りを望むからダメなんだ」と、ストイックのギアをさらに一段入れて1日10000万回感謝の言葉を唱えたりするのかもしれないけれど、そうなると「幸せになりたい」「豊かになりたい」と望んだ当初の「私」は完全に地下に埋め立てられています。

 

無い所から与えて与えて与えても出涸らしになるばかりです。そんなことをしても心は喜びません。

「ある」から与えられるし、「ある」から見返りを望まないし、「自分を愛している」から「他人も愛せる」ということにぜひ気づいて欲しいんだな(なぜ山下清調)

なので、思い当たる方は、人のために祈ったり尽くしたり犠牲になったりするのをやめて、その愛をまずすべて自分へ向けてあげてください。

自分がしたいことを小さなことからやってあげて欲しいのです。

食べたいお菓子を食べさせてあげるとか、紅茶を飲むとか、寝たいなら寝るとか、家事をやらなくても自分にダメ出しをしないとか、心が「ほっとすること」をやってあげることは、「私」を取り戻す簡単なエクササイズになります。

 

我慢の度合いが大きい場合、一時的にすごくわがままに見える状態がくるかもしれません。

でも、それでも自分を許してください。むしろ良い兆候と捉えていいかもしれません。

すべてには振り子の法則が働くので、徐々に自分も周囲も心地よいバランスが掴めるようになってきます。

自分の自由を認めると(自分への愛で満たされると)、他人の自由も認められるようになります(他人へも愛が流れ込む)。

他人の自由を認めるということは、「他人の権利を侵害しない」ということでもあるので、我儘放題して人を困らせるとか、人に責任をなすりつけるとか、一方的な価値観を押し付けるとか、そういう身勝手なことは「すべきでない」でなく、「したくない」と思うようになります。

自分が罰せられたり嫌われるのが怖いから人に親切にするのでなくて、人も自分も同じ人間で幸せを求める健気な存在なんだということが肌で感じられるようになるので、傷つけるようなことはしたくなくなります。

それが本当の「愛の状態」だと私は思います。

 

相互監視的になりやすいこんなご時世だからこそ、まずは可愛い可愛い自分を、命のように大切な親友だと思ってめっちゃ大事にしましょう!!

 

 

 

 

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「やりたい仕事が見つからない」について

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「やりたいことが見つからない」で悩んでいる人って多いと思うのだけれど、それについてしばらく考えていた。

巷の自己啓発やスピリチュアル系の本や記事には、「いつか必ずやりたいことは見つかります」「あなたの使命は必ず見つかります」とか書いてあって、それがいかにも、「やりたいことを見つけてキラキラしてるのが正義」みたいな書き方だったりしてますます「見つかっていない」人を焦らせているということ。

アセンションの話もそうだけれども、悩んでいる人をさらに焦らせるような表現ってこの業界とっても多いですよね。スピに助けを求めているのに、スピでも尻を叩かれて心折れかかっている人たちがね。楽になりたいはずなのに、「スピリチュアル」というマラソンコースを走ってる。

これは無駄に人を焦らせる発信者側の問題でもあるんだけど(自分の劣等感を見ないために偉ぶる指導者とか、そもそも自分が焦り思考の人)

とはいえ、受け取る側も自分への厳しさを外さない限り、愛のあるアドバイスも自分を責める武器として使ってしまうことがあって。

 

で「やりたいことが見つからない」の話。

多くの人が「やりたいこと」=「仕事」「好きなことで食っていけること」というふうに捉えていると思うので、今回は仮に「やりたいこと」=「仕事」として話を進めます。

 

人間がハートを開くと、イエス、ノーがハートで判断できるようになります。その瞬間瞬間の積み重ねで「あるがまま」の人生が開いてゆく。だけどそうなってくると、「就きたい職業」はもはや「最後に咲く大輪の花」とか「ゴール」ではなくて、思うにたくさん伸びた枝の一部になるんじゃないですかね。

 

なぜなら、「○○になれば人から認められて自分を肯定できる」という意識がそもそもなくなるから。他の自己実現と同列になるんです。つまり、「やりたいこと」=「仕事」と捉えて、見つからなくてじりじりと焦る心の奥底には、人から評価されること、認められることを人生で一番重要とする心の動きがあるのではないでしょうか。

 

もちろん、仕事って人生で一番と言っていいほど長い時間を費やすことだし、それが模索の上位に来るのはわかる。

そして褒められたいと願うことも人間の心理なのですべて否定する必要はないんだけれど、そこに執着して焦る前に、今日、今、この瞬間、自分にいちばん好きなことをさせてあげているか。

その前に、自分の中の「好き嫌い」のセンサーはオンになっているか。ずっとずっと先を見て焦っている視点を一旦自分の足元に戻してみるといいかもしれません。

ありのままの人生が花開く順序というのは、いきなり花から先に咲くという劇的な話ではなくて、今ここの繰り返しでしかないのですよね。

今日が楽しいと明日も楽しい、みたいな小さなこと。

スピ的に言う「やりたいことが見つかります」の意味ってこういうことだと思う。

そして今日やりたい小さなことの積み重ねが「やりたい仕事」につながってゆくのかもしれない。

 

よくあるのが、これは頑張りお疲れ女子に多そうだけども「やりたい仕事が見つからない(焦)!!!」っていうのは、「やりたい仕事を見つけなきゃ(他人軸)」と「今はもう何にもエネルギーを渡したくない。休みたい(本音)」のせめぎ合いというパターンもひとつに見えてくる。

(そしたら休んでおくれー!)

 

「やりたい仕事が見つかれば人生が楽になる」という妄想を抱く反面、「仕事って苦しいよね」「結果出さなきゃ意味ないよね」という染み付いた意識も同時にあって、「好き」に従う勇気が湧かない、ということもあるかもしれません。

(やりたい=できるではないんだよー!そして「好き」の部分は何なのか。職業という枠で捉える前に、「好き」の要素を趣味レベルで満たしてみてはどうでしょう)

 

っていうか「やりたい仕事は特にない。肩書もいらない」でも全然問題ないと私は思っていて。むしろ自分を自由にしてあげればあげるほど、そういうことっていくらでも起こりうる。

やりたい仕事がなくても焦らないし、肩書がなくても焦らないし、自分が自分としているだけで人生が楽しいってめっちゃスピリチュアリティが高いなぁって思う。(やりたい仕事はなくても、やりたいことはある状態ね)

なんか最近は教育的にも、「子供にやりたい仕事を探させなくちゃ」「子供の個性を発揮させなくちゃ」って風潮ありますよね。発想の方向性としてはとっても良いと思んだけれど、親世代がそれを許されなかった分、自分の果たせなかった夢をモリモリにして子供に背負わせてる感じの危うさはあるのね。

そういうのも新時代の「呪縛」になりうるかもと思ったりね。

 

話がそれたけどもスピ本とかYouTubeとかで「やりたいことを見つけよう!」「自分の使命を見つけよう!」とか言われても焦らなくていいって話。

むしろ、「見つかんなかったら問題あるかね」くらいのドッシリ感でいいです。

で、まず「好き嫌い」のセンサーを元に戻すために、ネガティブな感情を嫌わないことが一番大切かと私は思う。「嫌い」があるから「好き」も見えることを忘れないでくださいね!

 

なので、焦る必要は無いけど、心の声を聞くことは、丁寧にやってあげるといいかもしれません。そしてなるべく、その心の声に従うようにしてあげる。完全には無理でもちょっとずつ。

そうすると、徐々に心が元気になってきます。

 

スピリチュアルマラソンは走らなくてもいいですからね!

 

 

芸能人をリーディングすることについて

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先日自死してしまった某俳優さんについて未だにときどき考えるんだけど、

私は特別彼のファンというわけでもなく、でも気になってネットのニュースなんか見ててね、同じ人間として心が痛むと同時に、在りし日の姿を拝見すればするほど、「はぁーーーーーもうこのイケメンがこの世にいないのか」ってそこはかとない喪失感にも襲われますよね。不謹慎かな。

私のように、特別ファンじゃなくても、ズーンと来てる人は多いと思う。それだけ、影響の大きなものだった。

 

 

で、どういう要因があってどういう道筋でこんな衝撃的な幕引きになってしまったのか、その死にはどんな意味があったのか、というのは、考えるところはあるけれど、まあスピ界隈では、芸能人に限らず他者を許可なくリーディングするのは良くない、という意見もあって。

遺された人の心情、もしくはプライバシーの観点とかね。まあわかるけど。中には、「モラルに反する人は天の計らいでリーディングできないようになっている」みたいな、(あるあるだけど)道徳観念をスピリチュアルに持ち込んだような意見もあって様々です。

 

で、私個人は、デリケートな問題であることは認識しつつも、やっぱりその現象によって(今回は有名俳優の自死によって)私たちが見せられているものってあると思うから、生きている人間の気づきのヒントとしてそれを伝えるためにリーディングするのは悪いことじゃないと思った。

これも言っていいかどうか微妙だけど、プライバシー的観点とか、腫れ物を扱うように死に触るとかって、三次元の視点ね。

私たちは感情を持った人間なので、もちろんそれには寄り添ってゆく。

でも、それだけじゃなくてもいい気がする。

ただただ腫れ物を扱うように手を合わせ、ご冥福を祈り、何のモラルにも抵触せず、清く正しく優しく誰も傷つけずに生きたとしても、私たちの人生は容赦なくつづいてゆく。

その容赦のなさに、なにかのヒントが与えられるのなら、それがたとえ死者の残したものであっても、ありがたく頂けばいいと思う。

 

ていうか、「亡くなった方を再生回数稼ぎのために勝手にリーディングするなんてだめです」と神妙に言ってるYouTubeの動画にもガッツリ広告はついてるからな。

人間ってそんなもんだからな。

 

 

これからはもっと恋愛系の記事をかこう!そうしよう!と、決意をしたのは朝。

はたして。