ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

自分と仲良くね。

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インターネットの恋愛記事で、

「裏表のある人は幸せになれないから、愛されるためにも裏の自分を矯正して表の(理想の自分)に近づけるように頑張りましょう」という主旨の話を読んだ。

たとえば2年前の私なら、「そうですよね!頑張らなくちゃ!」と思っていただろうなぁと、そして今でも同じように「頑張らなくちゃ!」と思って、自分のネガ要素を撲滅しようとしてる人はきっとたくさんいて。

私も散々やったからわかるけど、それは苦しい生き方だ。でも、苦しむことが成長だと思ってしまうことも人間にはある。

 

いまの私の考えを述べると、裏表があるのは自分を否定してしまっているからです。「裏」とされている部分には悲しみがあるのかもしれないし、或いは自分の一部を「裏」として扱わなくてはならなくなったのは「ありのままでは愛されない」という思い込みかもしれない。

ほんとうはどれも大切な自分の要素なのに。

いずれにせよ、「愛される」というのは、「自分から愛される」というのがまず先で、それは理想的でない私を否定して素晴らしい誰かになることではなくて、自分のすべてにOKを出すこと。

 

「自分を愛する」という言葉は、耳にタコができるくらい聞かされていたのに、

私はそれをずっと、いまの自分を否定して、素晴らしく思える誰かに変身してその姿に酔うことだと思っていた。

でも結局のところ、どこまでいっても自分は自分だから、「さらに素晴らしい誰か」を目指して人と比べては自己否定を続けることになるし、その中でときおり覚える愛に似た陶酔感というのは、劣等感と背中合わせの優越感に過ぎなかったりする。

頑張れば自分を認められるというのは半分本当かもしれないけれど、頑張っても自分の中の悪魔は追いかけてくる。悪魔の暴走を止めるには、ちょっと角度の違った努力が必要なのね。

 

 

これは私自身の理想の投影かもしれないけれど、世界中のひとびとが、真の意味で「自分を愛せる」ようになったら、あらゆる争いは消えて、戦争も麻薬も犯罪も、出る幕が無くなる。

そんな完璧な世界は3次元には訪れないとしても(なぜなら、ここは分裂を通じて学ぶ場でもあるから)

たとえ未完成のパズルだとしても、ちょっとでも散らばったパーツを集めて埋めてゆきたい。

そういう草の根運動をやっていきたいと思う。

 

昨日は私生活でちょっとゴタっとしたことがあって、相手の感情を引き受けてしまって疲れた。 

しかしよく寝て起きたら新しい朝が来ていて私は元気で、あとは美味しい刺身でも食べて温泉に浸かれば完璧。そしてそんな楽しみを持てることをとても幸せに思った。