ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

仕事とスピリチュアル

f:id:lovefoxx:20200319180801j:image

 

仕事が忙しかったりすると、どうも軸がずれがちだ。

時間が差し迫ってる上に面倒くさい案件を投げられ、しかも別件のミスを咎められたりするとぐだぐだに空回りしてしまう。焦りと不安に支配されて、帰りの電車でもぼんやり苦しい。

 こういう気持ちを、デパートで働いていたときは毎日抱いていた。というか支配されていた。休みの日も、なんとなく気持ちが塞いでいて、何をやっても楽しくないという状態が続いた。5年以上前のことだけど。

 

デパートは私にとってハードな職場だった。

格式のある老舗デパートだったから、お客様は神様もいいところで、風圧で死人が出るくらいの神風を吹かせまくっている人も少なくなく、マネージャーもそのストレスとプレッシャーを末端の販売員にぶつけてくるし、現場全体がおおらかさを全く失っていて、苦しい職場だった。

ちょっと前にドコモの店員かなんかが、メモにお客さんの悪口を書いたのがバレてニュースにまでなった事件があったけど、接客をやってる人間なんて、それの何倍もひどい暴言をお客さんから当たり前に吐かれている。そんな日常茶飯事は仕事だからって黙殺されて、店員の反撃(あれはエネルギーが傷つきすぎたゆえの反撃だと思う)はあんなに取り沙汰されることに、この国の「お客様は神様精神」の悪い意味での根深さを感じて悲しい気持ちになった。「神に唾を吐くなんて!!!」みたいなトーンで批判されるのを目にするたび、やってらんねーなと思ったものだ。

あれって多分、追い詰められて行き場を失った怒り(=個人の感情)の発露だから、「こんなことはあってはならない、許されないことです(=仕事としてもっと自分を殺しなさい)」っていう怪我人に石を投げるような糾弾を緩めない限り、似たようなことは起こり続けるだろうと思う。

っていうか、その精神構造そものもが、あのような事件を起こしたんだと思っている。

 

私も経験があるからわかるけど、お客様を神様にしちゃうと、お客様を人間として見れなくなる。つまり、愛をもって見れなくなるということ。これはじつにパラドキシカルな現象。相手を自分より上に置きすぎて関係の均衡を崩すことで、相手はただの恐れの対象になる。

自分の粗を見つけて責めるもの、罰するもの、になってしまう。そうすると、人は守りに入る。「やってあげたいから」でなく「責められたくないから(それによって自分を責めたくないから)」が行動の指針になる。

「満足してもらいたい」「要望を叶えてあげたい」という心からの思いやりは、愛の目を通して生まれる気持ちで、自分を責めていない元気な状態を基盤にしていると思う。

つまり、上質なサービスのための自己犠牲の強要が、逆に、サービスを通して相手がいちばん欲しがっている広い意味での「愛」を提供できなくしているということ。

 

このことを私は接客業で学んだけど、接客にかかわらず、すべての仕事に言えることかもね。

相手はお客さんじゃなくて上司かもしれないけど。

とにかく自分自身の軸を失った状態で働き続けるとまじでろくなことになんない。

「これ以上奪われないこと」「失敗しないこと」に必死で、ハートで相手を思いやれないから、良い仕事はできないし、かろうじて器用に(あるいは根性で)こなしても幸せではない。そして金のためと割り切って大事な時間を差し出して、わずかな自由時間を酒で潰したりする羽目になる(実体験)

でもろくでもねーなと思う経験からもこのように学びがあるので、世の中はよくできているなと思う。

 

私は今の仕事がもうそろそろ潮時な気がしているんだけど、これって何も業務上の達成感とか、やりがいとか、ましてや向上心とか、逆に嫌で嫌で逃げだしたいとかそういうんでもなくて、「学びがそろそろ終了します」感が日増しに大きくなっている。言い方は悪いんだけど、「人生の無駄」感が出てきているというか。関係性を通して見つけられるものが少なくなってきて、もういいでしょってどっかで思っている私がいる。仕事において、砂漠のような不毛さを感じることが多い。

そして、日に日につまらないことができなくなっている。お金のためと割り切れない。

つまらないことをやめて、徹底して自分のために生きて、そしたらそのうち人の満足のためになにかやりたくなるような予感がある。そしてそういうふうに進んでゆきたいとも思っている。

なので、もうちょっとかな。今の私、流れに任せていたら、来るべきタイミングで自然と離れることが自分でわかっているので。