ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

愛を忘れそうなとき

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例によって会社は休みにならないんだけど、それでも家にいる時間は増えた。

私の周囲のひとたちは、コロナ禍前は日常に忙殺されてできなかった趣味や自己表現をこの機会に楽しんで始めていて、それを自由にネットで発信している。料理をやったり絵を描いたり。もちろん、これは災いであるのだけれど、そういうふうに人々の意識が自分の内側に戻ってゆき、かつてないくらい自分自身となかよくしている人々を目の当たりにするから、ほんとうにわるいことばかりではないんだ。

私はこうなることを少し前から予測していて、だから今、情勢の深刻さとはべつに心がふわっと喜びを感じている。不謹慎なのかもしれないけど。「いいぞ、もっとやれ」って、まわりのみんなにたいして思う。

 

我慢すること、規律を守ること、明日の生活を考えること、政治を疑うこと。

そういう場面に目を向ければ、いくらでも考えることはある。でも、何に注目するかは自分で選ぶことができるよ。そして、みんな信じないかもしれないけど、注目したものが自分の世界をつくってゆくのだ。

私はそんな中で、友人たちに触発されて、なるべくたくさんブログを書こうと思った。

 

 

*******

 

 

もう何年も前だけれど、私はひどい恋愛で心がボロボロに傷ついていた。

冷たい冬の森を裸足で彷徨うような悲痛な日々が続いていて、すっかり愛から遠く離れてしまった私は、ついにちゃんと自分を生かすことさえ難しくなってしまった。

ギリギリで生の淵にぶら下がってるみたいな毎日だった。

朝起きてウイスキーと共に精神薬を流し込み、1日意識を飛ばしてやり過ごすのがやっとだった。

週に1回行く精神科では、薬を強くされる一方で、まともなカウンセリングも受けられず、「断酒セミナー」みたいな的外れな治療を勧められて不信感しかなかったけれど、それでも誰かに自分のことを知ってほしくて通院していた。死んでしまいたいくらい辛い気持ちだったけれど、「男ごときで死ぬな」と喝をいれるもう一人の私がいて、それをよすがになんとか生き延びた。

そんなある日、リビングのソファーに倒れ込んでいたら、突然体があたたかい光のようなものに包まれるのを感じて目を開けた。そこには一体の天使が……いるはずもなく、いつもの本棚と天井しかなかったのだけれど、その光は私のつめたく凍った心にじんわりを入ってきて、ハートを一瞬で満たした。その瞬間、私はとてつもない安心感と安堵感に包まれ、喜びと感謝が溢れるのを感じた。嘘のように穏やかで幸せなその気分は、30分ほど続いて、そして跡形もなく消えた。

あれはきっと、私を守っている目に見えない存在が、私の痛々しさを見かねて「愛のブランケット」をかけてくれたのだと思っている。

「愛はなくなってはいない、ここにある」というメッセージを届けてくれたのだと思っている。

だからって私が突如信仰に目覚めるわけでもなく、債務処理をするような苦痛の日々をそれからしばらく送ることになったけれど。

 

なぜそのことを突然思い出したのかと言うと、昨晩ベッドでうとうとしていたら、同じような「愛の臨時ボーナス」がちょこっと降ってきたから。ビギナーズラックの大盤振る舞いほどではなかったけれど、じんわり穏やかな波。

 

べつにいまの私は失恋中でも何でもなく、件の疫病にもかかっておらず(多分)、元気そのものではあるが、病めるときも健やかなるときも愛は必ずここにあって、自分がどんなコンディションでも同じように愛してくれる人たちが周りにはいるということ。

それって世知辛い世の中に足をとられないよう神経を尖らせたりしてると、すぐに忘れてしまうことでもある。

でもたとえ忘れてしまうことがあっても、そのことを思い出せるか、そもそも知らないかでは大きくちがう。

だから、思い出したくなった時にいつでも思い出せるよう、心の引き出しにセットした。

 

誰だってそう。

生きているってことは、つまり自分への愛だ。

 

どんなに辛くても、諦めてても、自分のことが大嫌いでも、逆に言えば生きてる以上は愛からは逃げられない。体や心や魂は全力で自分を全うしようとして健気にがんばっている。

 

そのことを忘れないでいましょうね。