ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

「嫉妬」という名の「愛されたい」アラート

f:id:lovefoxx:20200630212029j:image

 

 

自分のブログを読み返していて、「重いな」と、ふと思った。

 

言葉が多すぎっていうか、力みすぎっていうか、文圧?霊圧?

しかしどれだけ取り繕っても、文章というのはやはりめちゃくちゃ自分が出ますよね。私は自分の客観性のなさが文章に本当によく現れていると思ってときどき恥ずかしくなります。

そして当時と考えが変わっていることもあるけど、それを損なわない範囲でちょっと書き直したり手入れをしたりした。まあ完全な自己満足だけども。

 

 

****

 

 

新しい恋人ができたというネット上の「彼女」の幸せを全然祝福できなかった。

スマホを握り締めながら、顔も知らないその人のことを思い、心の奥の方をニラニラと暗い瘴気で満たしていた。

女子として必要とされていることに嫉妬したのか、それに至る健気な努力を妬んだのか、とにかく心が穏やかでない。

 

でも仕方ない、そんな私も仕方ない。私も愛されたかったんだから仕方ない。

 

だからあなたも幸せになってね。

彼女の幸せを祝福できないと思いながら、幸せになってなってねっていうのは変だけれど、私がどんな私も受け入れて愛する気持ちになると、彼女への愛もぽろりと胸の真ん中に落ちてきた。

 

「自分愛」と「他人愛」のメカニズムを見た気がした。

 

誰かに心がザワザワするとき、妬ましいとき、僻んでしまうとき、それって突き詰めれば「私だって愛されたいのに!!」という心の叫びなんじゃないかと思っていて。

嫉妬って、自分と誰かを比較して、愛され要素(とか、承認される要素)をより持っていそうな相手を憎く思う気持ちじゃない?

 

そんな時は、自分の嫉妬心を否定して、なおかつ見たくない感情を抱かせる相手のことも否定する、という行動に行きがちだけども(芸能人のインスタに悪口書き込むみたいに)

「私だって愛されたいのに!!!」と認めたほうが圧倒的に楽なのだ。

「愛されたい」を否定するから苦しいんだと思う。

人間なら誰だって愛されたいんだから、恥じなくていいし自己卑下しなくていい。

愛されたいと思うことは甘えなんかじゃない。老いも若きも男も女も関係ない。食欲と一緒。

 

最近の私は、こんな風に心がザラっとしたら、「愛されたいアラート発令中だな!」と思うようにしている。「今日も元気で結構なことだ!愛してるで!」くらいの勢いで思っている。なんなら、頭上でパトカーのランプがビービー鳴りながら回っている想像までする。

そうすると、嫉妬の対象が憎しみの対象でなくなるから不思議。それどころか、「どうもありがとうございました!」みたいな気持ちになりますから皆さん試してみてください。