ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

弱者の椅子に座るということ。

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ダイエット中で低カロリーとか低糖質のアイスを最近よく食べるんだけども、ふと気になってパッケージ裏の原材料一覧を見たら、「豆乳」しか意味のわかる食材がなかった。

他は、化学薬品みたいな聞き慣れない単語がずらり。謎肉ならぬ謎アイスやん。これは頻繁に食べるのは良くないかもと思い、原材料の一部をネットで検索してみたところ、やっぱりと言うべきか危険食品撲滅ブログで親の仇のごとく叩かれている。

(でも、一昔前に比べてこういうブログも減った気がする。化粧品の毒性解析とかも。あれは何だったのか)

 

アレルギーがあるわけでもないのに、こういったものを蛇蝎のごとく嫌っていて、添加物食べますか、人間やめますかくらいの勢いの、なんなら一口でも食ったら寿命縮みますみたいな考えの人もこの世にはいますね!!!

あくまで思想は人それぞれなんだけども、大丈夫、君はそんなに弱くないから大丈夫、って言ったら怒られるかな。

 

一説によると、ていうかだれが考えてもそうかもしれないけど、おばあちゃんに聞いても意味のわかる食材を食べるのが栄養学的には理想らしい。

まぁそれはたしかにその通りなんだろう。

そして、生きてく上で何を食べて何を食べないかっていう選択は思想の自由とも重なるから他人がとやかく言う事でもなく、あと体質的な理由や好き嫌いは必ずあるから「なんでも食え」なんて言うつもりはない。

だけど、「○○はだめ!」ってどっかの情報に振り回されて極端に排除するというのは、自分の、そして人間の、生命としての強さを信じてないようにも思える。

 

コロナ案件でも、健やかな心身を保つためによく寝るとか、手洗いうがいをするとか、そういう基礎的なことに飽き足らず、ヒステリックなまでに行動を制限するような在り方っていうのは、「私は無力なため、すぐ菌に負けます」っていうところで自己不信があるのかも。で、自己不信と恐怖ってセットな気がする。

自分は弱い、無力だ、価値がない、不自由だ、損をしてる、奪われてる、これ以上損したくない、奪われたくない、奪われるのが怖い、なぜなら自分は弱い、無力だ、、、以降エンドレスループ。みたいな。でこのブラックホールには、「ただでさえ無力な私」「ただでさえ奪われて出涸らしの私」からさらに奪いそうな存在、自分を脅かしそうな存在への敵意とか牽制意識も生まれてきて、「ほんとに怖いのは人間」と言われる所以の、巨大でヘビーな二次災害を生んでる気がする。

 

人間だれしも、他者に脅威を感じるものです。

自分から奪いそうな他人、傷つけそうな他人というのが怖い。それはだれだってそう。

でも、自分が強い無力感を持っていると、「どこまでを安全とするか」の許容量がすり減ってしまうんじゃないかな。

すごく平たく言えば、無力感と「怖いもの」の数は比例するのかもしれない。

まあ「怖がり」って他にも要素はあると思うけど、無力感も一部な気がする。

 

 

長くなるんだけども「無力感」について考えるきっかけとなったのは別の出来事もあった。

ちょっと前にニュースサイトで、どっかの神社の木の枝が公道にはみ出して交通の妨げになり危険だから切ろうとしたら、木を管理してる女性が「御神木が枯れたらどうしてくれるのか」と、たいそう反発をしたという、三面記事的な話を読んだから。

神木と呼ばれるようなエネルギーの強い木なら、枝葉を切ったくらいで枯れないだろと思うんだけど、「枯れてしまう!」と思うのもまた木を崇めつつほんとのところ木の力を信じていないのだと思った。でそれは、その人が自分の力を信じられないことの投影なんだろうと思った。同時に「弱い木」を守ることで自分の価値を証明するために、木は永久に弱くなくてはならず、しかし自分が無力であることに甘んじ続けるためにも、木は「神」でなくてはならない。

 

言ってることがわかんねーよって声が聞こえてきそうなんですけど。そして私も言ってることがわかんなくなってきたからこの辺が私の限界です。

 

みんなみんなに力があるよ。これは本当です。

でも、力がないことで向き合わなくて済むことがあるから時に人は無力でいたい。弱者の椅子に座っていたい。

それが良い悪いって話ではないんだけど、自分の力を認めることができたら、それは弱者の椅子にどかっと居座り続けるより自由なことではある。

自分の力は、「証明する」必要なんて全然なくて、病気があるとか健康とかは関係なく自分の人生を全うするだけの力があるということに気づけばいい。人に対しても。

そして愛っていうのはそういうことかもしれないと思う。