ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

ネガティブ暴走族

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ネガティブな妄想を思考で焚きつけてどんどん不安になって視界をギュンギュンに狭めて、自分自身をどこか冷たくて遠いところに置いてけぼりにして地に足がついてないような嫌な状態に私はけっこうなりがちなんだけれど、最近またそういうことが多くて疲れる。

心地よいあり方を知ってしまっただけに、こんな状態に自分を追い込んでしまうことを不憫に思うようになった。昔は、自分自身を哀れむこともできなかった。

どれだけぐったり疲弊しても、それでもまだ自分を責めていた。自分に同情するって悪だと思っていた。

 

不安の原因っていうのは妄想だ。

そして不安の感情そのものは、私のなかに昔からあるものなのかもしれなかった。

原因(と思っているもの)はあくまで不安を表面化させるために思考が引っ張ってきたもっともらしい材料に過ぎなくて、だからその証拠に、不安になることを探そうと思えば次から次へと見つかる。

そして、原因(材料認定されたもの)と感情をわけて考えた時、私を不安に追い込んでいると思っているものは冷静になればなるほど、人生においてはかなりどうでもいいものだったりする。仕事のこととかさ。べつに私の仕事で死人が出るとか、誰かの資産を全部溶かすとか、そんなことって断じてないわけで。

 

小さな事で不安になってしまう自分のルーツがどこにあるのかよくわからない。

人からの評価と自己評価をいまだに同一視しているのかもしれないし、居場所がなくなるのが怖いのかもしれないし、しっかり自分の人生を生きている実感が足りないのかもしれない。

 

20代のときは、感情と原因のトリックがわからなくて、とにかく不安になる要素をしらみつぶしに無くそうとしていた。

でも、原因→不安じゃなくて不安→原因である以上、当然それは不可能なわけで。不安があるから原因を引っ張ってくるって発想が無かったものだから、不安の原因を作ってしまう(無くせない)自分をダメな人間だと責めて(可哀想に!)、苦しくて毎日思考を働かせないために酒に逃げる日々。

いまはお酒にも逃げないから、やっぱりちょっとずつでも成長しているものだな。

 

「自分への愛をいちばんに生きる」って決めたけど、それには恐れと向き合う勇気が必要だ。

 

誰かに媚びなくたって、反対に周りをシャットアウトして自分の世界に閉じこもらなくたって、柔らかく自分を守ってゆくことで、ほどよい自利と他利のバランスをキープできるようになるにはそれなりの強さがいる。

 

というわけで、最近の小テーマは「不安への対処法」な昨今。実験実験実験!