ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

誰かの「嫌い」を面倒見てあげる必要はないけれど。

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誰でもそういうことはあるのかもしれないけれど、ある特定の人々から、一方的に壁を作って距離を取られることがむかしから定期的にある。

話せば打ち解ける人もたくさんいるんだけど、何をやっても徒労に終わる相手というのが一定数いる。

 

彼女たちは(というのも、それはほぼ100%女性なので)一回私を嫌いと思ったらもうダメらしくて、こちらがどれだけ気を遣って接しても、なんかもうそういう問題じゃなく無理らしい。

 

それは彼女たちの問題なので、私が反省点を見つけて改めるとかそういう話ではないのだなと気付くまでにけっこう色んな葛藤があった。

エネルギーを膨らませる方向でなく、相手に合わせて抑えるほうに頑張ったことは、纏足のように苦しいことだった。

 

みんなに好かれようなどとムシの良いことを考えていたわけではない。

自由と孤独は隣り合わせだから。

ちゃんと自由でいる自覚があれば私は私の孤独を引き受けられたのかもしれない。

でも中途半端に合わせていたし、嫌われないよう頑張っていたから、不自由だし孤独だった気がする。いまもその感情には完全な折り合いはついていない。というか、周期的に大丈夫なときと大丈夫じゃないときがある。てことは、根本的には未解決ってことね。

 

人は、自分に罪悪感とか無価値感を抱かせる相手を嫌いになる。

だから彼女たちが私を嫌いなのは、自分のなかの許せない要素を私が堂々と持ち歩いているように見えるからかもしれず、逆に、自分に無くて、なおかつ密かに欲しいと思っている要素をひけらかしているように見えるからかもしれなかった。

そして私もまた、とくに仕事っていうシビアなフィールドで自分の存在を否定されることで、無価値感を感じたり、罪悪感を覚えたりすることが怖くて、彼女たちを嫌いになったのかもしれなかった。(最初から誰かを嫌いっていうのは私はほとんどなくて、だいたいの場合、相手から嫌われて私も嫌いになる)

 

「1人だけ違うことをしないで、みんなと同じようにやって」ということを求められて、それができないと責められる環境に自分を置いていることを可哀想に感じている自分もいる。

「私は人と同じことができない残念な奴なんだ」と、自分を責めてしまうことが可哀想だ。

人と同じことができないことは、捉え方を変えれば美しさなのに。

 

どちらにせよ、彼女たちも、私も、それぞれに自分を責めて、責めきれなくなったところで相手に責任転嫁した結果の「嫌い」であるように見えた。

 

最近またそういうモヤモヤしたものが浮上してきており、整理するのに時間がかかった。

 

 

瞑想中の問いにたいして出てきた答えは、小さな頃に仲間外れにされた記憶を刺激されるんだって。

私を一方的に嫌っている人たちもそうかもしれないね。

みんな悪人ではなくて、傷ついているだけだ。

だからって、「あなたの全てを愛で包みます」ともならないけどさ。

 

そして、ネガティブな感情に囚われたとしても、痛みにのたうちながら「ネタがきたどーー!」と必死で食らいついているもう1人の自分もいるからな。

自分を実験台にして、あますことなく人間を知ろうというこのガッツはマッドサイエンティストみたい。

若い頃から、とにかく体験がほしくて、人に言えないようなことをいろいろやったけど、それってすべて人間と自分を知りたかったからかもしれない。

あの気狂いじみた好奇心の源というのは。

 

ああ!まっとうさって一体何かね。