ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

感情教育なき国について

 

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最近思ったことだけれど、人って言い方には気をつけるけど受け取り方にはなかなか気をつけられないものだよね。

自分が発信者の時は、意見を押し付けない、「ひとそれぞれ」を重んじる、とか、社会経験のある大人ならわりとできてると思うんだけど、自分が受け取る側になった途端、自分の投影、思い込みをガンガンくっつけて受け取って、傷ついたり怒ったりしてしまう。

リアルな対人関係で人に対してものを言う時は乱暴な言葉を使わないし、ゼロにはならなくてもなるべく偏見の無い発言をするようにするし、いろいろと相手に配慮するんだけども、自分に対しては乱暴で偏見まみれの受け取り方をして、勝手に責められたような気がして被害者になって、そして相手を加害者にしてしまう。(でその愚痴がネットに向かうことも多い)

そういうことはわりとよくあると思う。私もある。ネットには書かないけど。

 

 

見える世界のことばかりに重きを置く(ここで言えば外面を整えること)とか、

他人には折り目正しく、自分には雑に接してもよいとか、

そういう不思議な価値観が染みついているので、「自分の心の扱い方」に関してものすごく適当に捉えられてきたんだと思う。

 

だから、教育も施されなければ、ちゃんと考える機会も与えられず大人になってしまうので、その点まったくをもって私たち現代人は洗練されていない。知識もマナーもスキルも身に付けて、社会人として立派になっていても、自分の心の取り扱いに関してはずっと未熟なまま。

人を傷つけてはなりませんとか、差別してはなりませんとかは教えるけど、なぜ人は人を傷つけてしまうのか、差別してしまうのか、あるいは自分の心の守り方っていうところに視点を向けるような教育コンテンツってないですよね。

 

自分と向き合うこと、心と向き合うこと。

「ちゃんとした大人」に条件があるとして、そこには残念ながら上記のことは含まれておらず、自分と向き合っているとか、心の声をきちんと聞いているとかは二の次三の次もいいところで、なんなら、そんなものは暇人がやることと思われている節すらある。

 

改めて、教育っていうのは、国民ひとりひとりの人生を幸せに導くために行うものではなくて、役に立つ社会のパーツを作るために行われているわけだ。

 

だけれど、凶悪事件とか、人をひどく傷つけてしまうとか、社会的にもネガティブな出来事の根底には、個人の内面の破綻が必ずある。

 

インターネットで誰かを誹謗中傷する人は、怒りや嫉妬のルーツと向き合って自分を癒していけば、誰かにそれをぶつけずに済んだかもしれない。

そして、辛いことだけれど、誹謗中傷を受けて心を傷つけられる人もまた、人から責められる前に自分自身を責める気持ちが内面にあったのかもしれない。

 

 日本人はとくに大人しくて、表だってはあまり揉めたりしないけれど、ネット世界に足を踏み入れれば、信じられないくらい汚い言葉で溢れているわけで。

朝の満員電車でソーシャルディスタンスがゼロどころかマイナスの時代、Twitterの画面丸見えのまま(本当に目の前にくるから嫌でも視界に入る)「前の奴の鞄が迷惑なんだよゴミが」「混んだレジで小銭出そうとする奴は死んでほしい」みたいなことを書き込んでる人を見かけたことは一度や二度ではなく、しかも例外なくめっちゃ真面目そうな人なわけよ。多分会社ではそんな言葉遣いもしないんだろうし、ちゃんと「人を慮って」コミュニケーションしてるんだろう。会社では。

それはいまの道徳とかモラルとかの共通認識が社会の表面は整えても個人を救ってないってことの表れだと思うから。

自粛警察にしても、ネットの誹謗中傷にしても、人をジャッジする、バッシングするっていう「ドラッグ」が必要なくらい要するに自分自身と人生に不全感が溜まっているんだと思うから。

社会に変化を求めても構造から変えるのはしばらくは無理だと思うので、個人個人が自分の内面と上手につきあう作法を身につけてゆかなくてはね。そんなふうに思います。