ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

砂漠のような自由の時代について

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認識って不思議だね。
世界は人々の認識(主観)の集合体なのに、母数が増えると、現実という名前のついた絶対的ななにかがあるみたいに錯覚してしまう。

意思の伝達網を含めた情報伝達って何十年前かに比べて、格段に進歩した。

それは人々の共通認識を密にした。

メリットはもちろんたくさんあったはずだけど、共通認識が増えるということは、いわゆる「常識」とか「かくあるべき」も増えるということで、それは相互監視の強化にもつながる(インターネットが直接的に相互監視を強化する面もあるし)

ひらたくいえば、共通認識が増えれば、「縛り」も増えるってこと。やらなくてはいけないとされることも、やってはならないとされることも、両方増える。

 

今朝、パニック障害を発症する人が30年前の10倍になったって記事を読んで。

鬱もそうだと思うけど、

これって、理由はひとつじゃないにせよ、ネット時代における「縛り」の多さと無関係じゃないよなと思ったのでした。

 

情報源はテレビとラジオと本と新聞しかなかった時代、よくもわるくも人々の認識は矯正されることなく野放しだったように思う。

多様性っていうよりも、網羅できてない正解と正解の隙間にいろんなものが存在したという意味。

たとえば、歯医者に行くのも、基本的には看板を出してる近所の歯医者とか、知り合いの口コミで行くのがせいぜいで、そのかわり今では考えられないようなヤブ医者も、オカシな民間療法も普通にあった。何においても「ハズレ」を引くことはザラにあり、そしてその事にたいして今より寛容だったと思うのだ。

今は歯医者選びの基準なんてネット上には溢れかえっていて、自由に何でも選べるかわり、「正しいものを選ばなくては」という強迫観念を持たせてしまう仕組みにはまってるんじゃないかと思う。点数順でランキングしたりしてね。基準は多様化して厳しくなって、みんなが評論家だ。

「ハズレ」ることが許せない人々が、たぶん昔よりも増えている。ハズレることを、自分にも人にも許せない人々が。

 

ある程度しょうがなかった部分がしょうがなくなくなることは、わりと余計なお世話的な面倒さを孕んでいる。

選択肢が増えることは、そのぶん責任も増えるということだから。

「親の言いつけ」「テレビの情報」「コミュニティ内の常識」とは質の違う、顔の見えない発信源によるモンスターみたいな巨大ソースがフリーパスで存在する世界では、本当に息もできないくらい自分をぐるぐるに縛ってしまうこともできる。

そしてそれにたいしても、選択の結果の自己責任という「認識」までついてまわる。

自分の意思を貫ける自由の裏側には、多様化した正解にがんじがらめにされて、自分を見失う危うさがある。

 

だから、封建的な昭和時代より、自由な人は恐らく増えたんだけども、不自由な人が格段に減ったかといわれると、それは難しいところかもなぁ。

 

まるで砂漠のような自由の時代だとおもう。

自由は自由なんだけど、その自由の過酷さに飲まれずに生き抜くにはしっかりした自分軸が必要みたい。