ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

hey,siri 毒舌ってなんですか?※加筆あり

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優しい・易しい言葉を使う、というのは今年の年初に掲げた目標のひとつだった。

というのも、私の言葉は時に辛辣で、そして難解であるからだ。

どちらかというと、辛辣であることをなんとかしたかった。辛辣な言葉というのは、ジャッジの概念に基づいている。自分の中の、良いとか悪いとか。価値があるとか無いとか。

その基準があること自体は悪いことだと思わない。むしろ無い方が不自然だ。人間だから。

くだらない映画を観たらくだらないと思うし、馬鹿げた政策には批判的な気持ちになる。

 

危ういのは、それが繊細な箇所に及ぶとき。人の心に踏み込むような値踏みの言葉には気をつけなくてはならない。

そういう言葉って、たとえ口に出さなくても、人に投げる前にまず自分に投げていて、私はだから自分に価値がないとか、よくないとか、劣っているというレッテルを貼り続けていたということ。

いわゆる、カウンセラー、占い、そういう類の業界の人って、「歯に衣着せぬ」「本当のことをハッキリ言う」「愛ある毒舌(愛があるなら解毒して!)」といった芸風の人が結構いる気がする。

 

しかし、多くの人がそうだと思うけど、お金を払ってカウンセリングを受けるっていうのはよっぽどのことで、すでにヘタヘタに疲れてどうにもならなかったり、ボロボロに傷ついたりしている。

私が鑑定を受けたある占い師の女性には、

「あなたは大騒ぎしてるけど、そんなの他の人の悩みに比べたら大した問題じゃない」

と言われ、最終的には「対人スキルが低い」「現実を見てちゃんと生きなさい」みたいな、上司か親戚かな?っていうアドバイスで終わった記憶がある。

また別の、あるカウンセラーの本には、「痛みを伴なわないと人は変われない」と、前置きした上でなかなか辛辣なことが書いてあった。

(あなたが愛されないのはつまらないからだ。とか)

こういう、すでに痛みに痛んだ人が読んでいる本の中で、傷口にあえて塩を塗る意味を問いたいわけです、私は。

 

えー、これってかつて一世を風靡した、「ずばり言うわよ」なあの方の弊害(と言ったら失礼だけども)なのかしら?それとも業界の伝統芸?

問題なのは、ずばり言えば言うほど治りが早いかって言ったらそんなことはない点である。

そして、ずばり言えば言うほど、なんとなくそれが真実っぽく受け止められる風潮がある点である。

冷静に見れば、多くは個人の価値観、偏見だったりするのに。

 

思うんですけどね。

歯医者とカウンセラーは痛くないほうがいい。最終的にはどちらも同じ「虫歯の根治」「自分自身の気づきと癒し」という場所にたどり着くなら、痛くないルートでやってほしい。それも腕の見せどころってもんである。

平成の初期、田舎には「痛いほうが治るんや」と言わんばかりにサディスティックな治療を施す歯医者が普通にあった。患者が痛がることがアイデンティティになっているのでは?とすら思えるような、どう考えても無駄に痛い、痛みに対する配慮が皆無の歯医者である。

何せ私が、虫歯を削るときは麻酔をするのが一般的だと知ったのはここ5年ほどのことなのだ。

でこれ、歯医者の話だっけ?

違います、私の口が悪すぎるって話です(ちなみに歯医者がトラウマなので歯も悪い)

 

そもそもね、毒舌である必要性ってどこから来てるのかって話なのだ。

なんで人にきついことを言わなくてはならないのか。いちいち評価の言葉で自分や人を「斬らなくては」いけないのか。

そこには、やっぱり自分が認められたいとか(=認められてない)人より優位に立ちたいとか(=本当は自己肯定感が低い)、そのさらに奥には、人から見て価値ある存在でなくてはならないとか、そういう自分自身への追い込みがあったような気がする。

あるがままの自分であってはならないから、それをガチガチに封印する鉄板をブンブン振り回して人にも投げつける、みたいな。

あるがままの自分で生きられないから、人も一緒に沈めたい、みたいな。

思い返せば、人にたいしての見方が厳しくなるタイミングって、人生に満足してないときだった。

要は、自分を癒せてなかった。自分に対して、他人のような冷たい距離の置き方をしていた。

あと、ホルモンのバランスでもやたら攻撃性が増す時期はあったりするけど。

 

自分に向けた刃物を他人にも向けて、もしくは他人に向けたぶん、きっつい自虐でwinwinにしたつもりで、そしていっしょに「かくあるべき」の沼に沈没する意味ってあるのかしら。その沼って、ほんとうに誰かを幸せにするの?

 

苦しむ人に救いの手を差し伸べるなら、ロープはやっぱり掴みやすくて肌に優しいやわらか素材がいい。

藁にもすがる想いの人に、有刺鉄線を巻いた金属バットに捉まらせる試練をさらに与える必要はまったくないとおもうのです。

 

そのためには、自分を殴らない!

怪我人を蹴り飛ばしてでも認められたいと思う、そのナルシズムの暴走を防ぐには、自分のことを誰よりも承認してあげることが必要なんじゃないでしょうか?

 

かくして私は、「優しい言葉を使う」特訓をはじめた。

これは、「口が悪い」と親からも言われ続けた私にとってはなかなかの試練や……プリン食べながらがんばろ。

 

 

(2020.2.13追記)

この記事をFacebookに載せたとき、「毒舌だと信者がつきやすい」って話がコメントで出た。

そうなんす、それなんです。(何が)

たしかに、辛辣な助言も、その辛辣さゆえに支持を集めているという側面はある。

カウンセリングや相談事という場面に絞って言うと、相手にハッキリと自分の弱点を指摘してもらい、そして道筋を示してもらうことによって得られるカタルシスというのは、きっとある人にとっては代えがたい快楽なのだ。

しかしそれは自分の意思で自分の人生を全うすることを目的とした場合、そのゴールからはさらに離れてしまうリスクを生む。言い換えれば、カウンセラーに依存するという結果を招きやすい気がする。

たとえば家族やパートナーからモラハラを受けている人が占いやカウンセリングに訪れた場合。それによって麻痺した感覚を正して自分を取り戻すどころか、今度は自分のコントロール権をモラハラ夫から占い師に移して大金をつぎ込むという話は、業界に詳しくない私でもわりとよく聞くし、陥りがちな罠のような気がします。

「毒舌」は毒なだけあって、人を依存させる甘美さも持っているのですね。