ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

「愛と恋の違い」の、その先にあるもの。

お題「恋バナ」

 

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 人間が人生で何回もしつこく繰り返すことには、その人のテーマがあると思う。

ワーカーホリックとして生活のすべてを仕事に捧げる人、問題が次々と噴出する家族の面倒を見ている人、ギャンブルがやめられない人、万年ダイエッター、もしかしたら闘病もそうかも。

私の場合、それは恋愛だった。

おおよそ同性愛以外のすべての経験をして(あ、お金が絡む修羅場はいまだに無いけど)、結局目を向けさせられたのは「自分を愛しなさい」というメッセージだった。

 

 

 都合がいいのか悪いのか、若い頃の私は湯水のように無料な「安定」と共に、母親の期待に緩く添い続ける生き方をしていたので、自分が自分を愛せていないことに気づくまでにずいぶん時間がかかってしまった。ずっと自分が不在だったのに、そのことを見ないふりをして長らく生きてしまった。

自分が不在な「安定」は「幸福」ではないのに、両者に似たムードを感じて、せめていつでも飛び立てるために磨いておきたかった「考える力」をじくじくと奪って私を腐らせるように思えた「幸福」そのものを、ながらく軽蔑してきた。

 

で、「自分の不在」に強引に目を向けさせる荒治療が数々の痛い恋愛だったわけ。

「結局、自分を愛すことがすべてである」という気づきをようやく得てからも、認められる何者かにならなければ自分を愛せないと、そのHOWTOを必死で探し回っている時期がながく続いたのだった。

 

三次元的な意味で恋愛を語ると、テクニック的なことから精神論までネタには困らない。

モラルや道徳、結婚との相関関係、タイミング問題、モテ非モテ論争、愛される愛されないの話、そこから進んで、愛は与えられるものではなくて自ら与えるものだ、いや、女は愛するより愛された方が幸せよ、いやいや何をいうねん、恋は自分本意で愛は相手本意(どや)、そして最終的には、どっちにせよ自尊心だけは捨てるべからず!みたいな大団円になって終わる。

「浮気しない男の見分け方」も「重い女にならないための自分のあやし方」もネットには溢れていて、「本命 見分け方」で検索をかけては不安に溺れて眠れなくなったかと思えば、「男は愛情を行動で示すものなので、LINEが少なくても大丈夫」という記事に安堵してつかのまの空元気に浸ったりする。

望んだ関係が思うように成就すると天にも登る気持ちだし、それが壊れると、この世の終わりのように悲しい。他人どうしの分かち合いである以上、いかなる間柄にも傷つけたり傷つけられたりするリスクはあって、だから「自分のなかに愛を貯めるゲーム」みたいで女の子たちは恋愛にのめりこむ。

裏を返せば、それだけみんなが、愛を(自分を愛することを!)求めているということだ。

 

ただひとつ言える、と、私が思っていることは、

愛される関係も愛されない関係も、

愛せた相手も愛せなかった相手も、

幸せだった関係も、まったく幸せじゃなかった関係も、そのすべてに意味があるということ。

もちろん、「自分を愛せている」に越したことはない。

でも、自分を愛せなくてグズグズに崩れそうだった日々にだって、魂の学びという意味で大きな価値があるのだ。

これは恋愛においてだけの話ではないのだけれど、何度も繰り返す血の滲むような関係は、「気づきのための設定」であることが多い。

私個人の話をすると、ヒステリー気味のモラハラ男に搾取される関係を終えて、満身創痍の時に知り合った相手にさらに騙される、ということがあった。

その時の、すべてを焼き尽くすような怒りのエネルギーが私を変えるきっかけになった。

意を決した私は「無条件に自分を愛する」という心の筋トレを開始して、5合目付近で振り返った時にわかったのは、例のモラハラ男も、私を騙したオーガニックヤリ○ン(というあだ名をつけた)も、その前もそのさらに前の「俺を捨てないでくれ」と泣いてすがったあの人も、みーーんな「自分で満たせない愛をお前が満たしてくれ!」という搾取のパワーで私に乗り掛かっていた(2つの意味で)ということ。

私と彼らはどこまで行っても似た者同士で、似た者同士の愛の奪い合い相撲を繰り広げていたということ。

そして私は、その勝率こそが自分の価値を保証するものだと言わんばかりに一喜一憂して、負けがこんでくると、自分の価値がすべて否定されたような絶望と苦しみに襲われた。

私私私私!!どこまで行っても「私を愛して!!!」

 

つまり、相手のことなんかぜんぜん愛していなかったのだ。

その全容がクリアに見えたとき、「自分を愛せない人に人は愛せない」の意味をようやく知ることとなった。

 

だから「良い恋愛」っていうのは、=傷つくことのなかった恋愛、思い通りに行った恋愛というわけではない。

「女は愛するより愛される方が良い」とする風潮もあるけれど、私の考えでは、あくまでどれだけの学びを得て、どれだけ自分に立ち戻れるか。その関係を通して、どれだけ自分を知ることができるか。

それは相手にとってもそうで、お互いを鏡にしたその循環の向こうにパートナーシップがあるのかも。

 

ちなみに、このことについては少し前から書こうと思っていたんだけれど、考え始めるとヒントとなる書籍や情報が続々手元に集まってきた。

 これも引き寄せですね。