自由=ワガママと言われてきたもんね
横浜中華街へ行ってきた。
大好きなんですよ中華街。
日本だけど日本じゃないみたいな、雑多な空気。よくクリスマスに行ってね、中華ディナーを食べて(なにせフレンチだとかイタリアンはクリスマスは激混みなので、ほどほどな中華が定番)
それで冬の夜中の、人がいなくなった中華街を散策するのが好きです。ちょっとシュールで、異次元に迷い込んだような「千と千尋」的な不思議さがあって、きもちいいよ。
そして朝は7時からお粥を食べに繰り出します。
コロナ禍で一時は閑散としてたみたいだけども、人出が戻ってよかった。
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こないだ、ある夜、唐突に、「これからはやりたいことをやりたい放題やろう」
と、いきなり電気がビーーーーッと流れたみたいに思ったんです。
たぶん、ベッドに入って、寝かけてたと思うんだけど。最近、寝かけてる時に、たまに変な電波を受信するのね。
ていうか、私スピリチュアルを人生の指針にするようになって、そんなことはとっくの昔に決めてたはずなんですよ。
自由に生きる、だとか、そんなことは。
だけど、それもまだまだ「理想」として掲げていただけの部分があって、腑に落ちていなかったんだと思う。
「まあ自由に生きたい」だとかってのは、不自由さの裏返しですからね。
なかなか人間として染み付いたマインドって簡単には抜けなくて、
人間っていうのはそういう矛盾の中にどぼんどぼん落ちながら生きてるんだから。
でまあ、寝がけにとつぜん閃いたことにより、さらに一段、魂が解放されるのを感じたわけです。
カウンセリングについても、もっとたくさんやって経験を積まなきゃと焦ってた部分があったけど、なんかそういう力も抜けた。
(力が抜けた途端、失敗してもいいかとココナラに出品する気になり、さっそくやってみた)
思ってみると、まあほとんどの人が、「自由=ワガママ」と言われて育ったよね。
ワガママを言わず、卑屈なくらい謙遜して、自分のことは後回しにして人のために何かしてあげることが美徳だとされてきた。
子供の頃、そういう価値観を持たずに「自分全開」で生きる人間は社会では受け入れられないし愛されないと知った時、ぶっちゃけ私はまじで死にたくなった。
特に私はかなり変わった子供だったから、「愛されたければその個性は全部殺せ=死ね」と言われているような気がして、夢も希望もないなと思ったんです。
特に女の子は、謙虚であることを求められるよね。私なんて女の子らしさのカケラもなく、それどころか「生と死」に異常な関心があって、落ちてるキツネとか猫の死骸を拾って帰ったりしてたからね。(本格的にやばい件)
だけどそれって呪いだから。(え、キツネの?)
キツネの呪いではなくて、「◯◯すべき」を人にも他人にも強制することは、呪うのと一緒という意味だよ。キツネは埋葬したから感謝されてるはず(そういう話じゃないんだけど)
ということは、本当の本当のところでは、みんな自由にのびのびと生きたいと思ってる。口やかましく保守的な田舎の親戚とかもみんな、やりたい放題やっていいならやりたいと思ってんだから(笑)
まあ、死体を拾いたい人はあんまりいないだろうけどさ。いたら友達になりましょう(←ほんとにやめて)
そして、「もう死ぬしかないわ」と思った私はどっこい元気に生きている。
自由な魂を持って生まれて、どん詰まりの不自由を経験し、また自由に戻るためのアトラクションの中をみんな生きてる。
でね、その「不自由」もどっから来てるかというと、「愛されたい」「わかってほしい」から来てるのね。
謙遜も自己犠牲も、「こんなにやったんだから愛してくれますよね?」「認めてくれますよね?」というのが深い部分であるわけで、ほんとにやりたくてやってるんだったら人には強制しないし、自由な他人を見てイラついたりもしない。
がしかし!自由に生きても愛は無くならないんだとしたらどうするかね。
自由に生きようが不自由の中で溺れようが、同じようにいつも見守られていて、愛されてるんだとしたら。
てことは、その「欠乏感」は幻ということです。(と言っても、人間には感情があるから、急に満たされた気持ちにならなくても問題ナシです。不安でも怒りがあっても自分を責めてても、そのままをいったん認めてあげてください)
これからは、愛されるためにどうするか、ではなくて、そもそも愛されている、ということに気づいて、怖がらずに自分を活かしてゆける人が増えるといいなぁと願っています。
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