ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

木が教えてくれる完璧なエネルギー

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こないだ修善寺に行ったんだけども、修禅寺に向かう途中で立ち寄った日枝神社というのがとても良かったです。

修善寺は地名、修禅寺はそこにあるお寺の名前で、漢字が違う。ややこしー!

 

日枝神社には、私の好きな大木がある。

これは2本の杉なんだけど木の根本が繋がっているんです。だから、子宝と縁結びのご利益があるんだって。

しょうじき、ご利益的なものはあんまり気にしてないんだけど、ただ木から溢れるエネルギーが素晴らしすぎてうっとりした。

でね、何でエネルギーが素晴らしいかというと、「あるがまま」だからだよね。それに尽きると思った。

あるがままの生命のパワーを歪めずに大放出しているから。そういうのに触れると、人間は心が震えるようにできているのではないか。

てことは、どの人間も本来は完璧なエネルギーを放ってこの世に生まれるはずですよね。

エネルギーが萎むのは、魂が曇るからで、そこはイコールだと思う。

でもこれってゲームだから、曇ったところからスタートするようにできていて、だから曇ることそのものが悪いことではないのだ。

ていうか、その「曇り」すら完璧な秩序の中に組み込まれていたりして。

そして魂は曇るけれど傷つきはしないので、曇りを払えばまたちゃんと輝く。(というか、ほんとはずっと輝いている。輝きが見えなくなるだけで)

 

じゃあ曇りとは何かというと、これがいわゆる「怖れ」と呼ばれるものですね。罪悪感、無価値感、無力感、とか、総合的に自己否定は怖れです。

怖れ=サバイバル本能でもあるので、それは生まれた時、世界が「私」と「あなた」に分離した時に生まれるんだけど、分離しているからこそ、愛に気づいた時に至福を感じるようにできているのですね。

そして人は、「愛」を求めるがゆえに「怖れ」を持つとも言える。

 

ディスカバリーチャンネルか何かで、マッチョな元軍人がナイフ一本持って森に放置されて自力で帰還できるか試すゲームを昔やってた。

完全に頭のおかしい変態企画で、生きた魚に齧り付いたり、ラクダの死骸の胃袋に溜まった水を飲みながら生き延びる彼を観て、変態だ変態だと言いながら面白がっていたんだけど、きほん、全人類が同じことをやっている。

わざわざ愛からとおく離れ、面倒くさくて困難なゲームをやる変態が人間というものです。でも、魂はそれすら楽しんでいる!

 

木が「あるがまま」なのは、分離感を持たないからだね。

自己否定がないから、「隣の木よりデカくなりたい」とかも無い。「デカくなりすぎたら森の神様に嫌われる」も無い。あと、「がんばって成長しなくては」も無いし、「常にたっぷり葉を茂らせなければ幸福な木になれない」も無いよね。

その代わり、「めちゃくちゃ嬉しい!」とか「死ぬほど幸せ」とかも無いんだろうね。

 

というわけで、木と比べると、自分がどれだけのエゴをいまでも山盛りに持っているのか知るのでした。

だけど人間は木じゃなくて感情を持った生命体だから、傷つけられたら痛いように、心も苦しくなる。欠乏感もある。

魂の曇り(=怖れ)をすこしずつ外して、苦しみの量を減らしてバランスするのがよいと思う。

「ひとつも苦しくない」を目指すのはちょっと無理があるというか、

苦しみゼロを目指す人ほど苦しんでしまうものだから。苦しみゼロを目指して、思考でなんとかしようとして、心を殺した結果、喜びもわからなくなり、抑圧された苦しみもけっきょくはデカくなってる、みたいな。

あと、「ひとつも苦しみたくない」というのは、「今がめちゃくちゃ苦しい」の裏返しだよね。

それゆえに、ひとつも苦しみたくない、スピリチュアルによって全部挽回したいという気持ちはとってもよくわかるけど。

そんな時は、焦って色々やるよりも、まず心の力も体の力もぜんぶ抜く!

あと、絵に描いた餅みたいな理想像を捨てること。人間なんて、みんな似たり寄ったりなんだからさー。

あなたが頭で思い描く、スーパー理想的で完璧な状態と、自分で軽蔑している現実のあなたとが、本質的なところでは何も変わらないんだとしたら。

たとえば自分がどんなに今どん底だと「思っている」としても、すべては完全な秩序の中にいるということを思い出してくださいね。

そんなことを自然に触れておもったのでした。

 

 

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