森林浴で「わたし」を取り戻す
(最近、森林ネタが多い)
火曜、枡田さんの「自然の中で感覚を開く講座」のDay2で生田緑地へ。
1日目の記事↓↓
8月から、個人カウセリングを始めました。
いまは練習期間として無償でやってるんですけども、それがちょっと立て込んだりすると思考過多になります。
「自分の可能性とか「どう頑張れるか」をすごく真剣に見つめてきました。
ただまぁ、すっごい頭を使ってきています。「これとこれをどう結びつけるか」とか「もうちょっと洗練されたやり方はないのか」とか、ひとり自問自答とか、ひとり会議みたいな感じで、最近のあなたはすごい頭を使ってきている」
と書かれて、「くはーーーーなんで知ってるん!!!」とひっくり返るくらいには思考過多になってまして。(やっぱすごいしいたけ占い。セイナさんありがとうございます←私信)
ようするに、いろいろ先走って焦って自分軸が地滑り起こし気味だったんです。
しかし、自分軸が地滑り起こし気味なのも、そこからどうやって修正するかもなんとなく把握できるようにはなっているので、
うむ、ちょっと思考を止めよう。
というところで、ちょうどこの講座がセッティングされていました。
1に感覚2に感覚、3.4はなくて5に感覚。
という、ひたすら五感を使って森を感じる、ただそれだけの日。
散歩者のほとんど通らない森の遊歩道で、小鳥のさえずりと虫の声と木々のざわめきと、時折木の実や葉の落ちる音、あとは鬱蒼とした木々と、緑の豊かな香りに囲まれて、
自然の1日の移ろいをただ眺めているだけです。
日の傾きとともに、こんなに緑の表情が変わるなんて、
飛び交う虫の種類や鳥の鳴き声が変わるなんて知らずに生きてきました。
時計もスマホもほとんど見ずに、森の中のベンチに寝そべって、杉の枝の隙間からのぞく空を眺めたりしていたら(不審者)、
自分なんて実体のないもので、景色を映す鏡でしかないような、それでいて世界のすべてを内包した完全な存在であるような、
そんな不思議な安堵感に包まれました。
実質4時間くらい森の中にいて、下界に戻った時は里に出てきた熊の気分。
感情や執着に振り回されることが「私らしく生きる」ことじゃない。
むしろ、いろんな思い込みを手放して、こだわりなく過ごす中で、裸の自分と出会える気がします。
でもそれって、無欲になるとか、怒らないとか、喜びを感じなくなるということではない。ましてや、清く正しい善人になるということではまったくない。
「個を生きること」と「一体感を感じること」のバランスについていつも考えています。
感情や執着に振り回されることが「私らしく生きる」ことじゃないと書いたけれど、
同時にすべてがひとつ(=愛しかない)と悟りきってしまったら、人間が肉体と感情を持ってこの世に送り込まれた意味がないとも思うわけです。
というわけで、バキバキの分離感に支配されたこの三次元で、「悟って生きる」こと自体が、もしかすると分離の極地と紙一重なんじゃないか、分離感からのエスケープという意味で、排他的な「スピリチュアル」という教義をつくってしまったんだとしたら、それは新たな分離を生んだだけであって、残念なことですねと、思うんだけども、
なんなら、その残念感も含めて、人間が味わいに来ていることなのね。
ほろ苦いよね、世界は。
でも私たちは、それを体験しにきている。
依存することも、優越感を持つことも、憎むことも、妬むことも、体験しにきている。悟ったような気になることも多分。
それを「ワンネス」から離れてわざわざ体験しにきているということを忘れずにいれば、より広い視野と器を持っていろんなことを味わえるのではないかな。
自然の中にいて思ったことなんだけれど、
宇宙は人間の私利私慾のためにあるんじゃないのね。当たり前だけど。
だから、スピリチュアルで幸せにっていうのは、宇宙が自分の願望を実現するために働いてくれるみたいな、たとえばお金を恵んでくれたり素敵な彼を与えてくれたり嫁姑問題を解決してくれたりっていう現世利益的な狭い話じゃなくて、
宇宙の一員である人間も、その法則に従っていれば自然に無理なく軽やかに(=幸せに)生きられるで、という教えなんですよねきっと。
人生のテンションが不自然にブチ上がるみたいな、そんなドーピング的なものではなくてね。
そして、そのブチ上がらなさ、必然的で穏やかな日々をまるごと愛せることが、「ありのまま」ということかもしれません。
というわけで、すべてはバランスだなぁと思ったところで、自分が戻ってきました。
めでたし。
かわいいキノコが生えていたー!毒入りかな??