パラレルな世界から見る究極のやすらぎ
朝によく瞑想をするのですけど、先日行った来宮神社の神木から感じた波動があまりに完璧だったので、
あの安らぎを妄想の中で再現しながらやることが多いです。
涙がでるようなこの安心感をどんな言葉にすればいいのか、というのはけっこう難しい気がする。
まず、時間の概念が溶けているんだな。(すでにわからねーよ)
来宮神社の大楠は、樹齢が二千年と言われています。
それって、二千年分の過去が現在に同時に存在している感覚だった。
ということはつまり、これから先の未来、何百年か何千年かもここにある。
歴史が変わって人が何回も生まれ変わってっていう壮大な時間のうねりが、過去→現在→未来というまっすぐな線の上に存在すると同時に、いまこの瞬間にもすべてある。
その壮大な枠の中にいる「私」というのは、もう1人だけではないわけです。たくさんの「わたし」がいます
いまの「私」が囚われている、不安だとか恐れだとか、あるいは、喜びや愛のようなものも、大きな大河の一滴であり、その大河というのは、それこそすべてです。
いま生きているものも、有機物も無機物も、いま生きていないものも、これから生まれてくるものも。
そういう感覚の中で、「私」という概念が消失してしてゆく開放感。
そして「『私』が消失してもなにひとつ損なわれるものはない」という究極の安心感なんじゃないだろうか。あの安らぎの正体というのは。
でね、これがよく言う「ありのまま」の原型になっている気がするんです。
「ありのままのわたしでいい」=「「私」というエゴを失ってもわたしは脅かされない」ということ。
さらに平たくいうと、
私はこういう人であるべきだ、とか、こういう人になってはならない、というエゴをすてても、わたしの居場所はなくならない。だから力を抜いて、のびのびと生きてゆけばいいという感覚。
……で、それが容易くクリアできない、ややこしい事の起こりまくる、波動の重ーい地球遊園地に、われわれはあえて選んで来ているわけです。「肉体と感情」というハンデを持ってね。
なんなら、「すべてを悟った感覚」すら罠だったりするぞ。面白いですね。
なので、「究極のやすらぎ」に抱かれる感覚を知りながら、「わたし」を楽しむのが地球上での最強の過ごし方かもしれないと思うわけです。
スピリチュアルカウンセリングというのは、「私」から「わたし」への足掛かりをお手伝いすることかもしれないなぁ。