ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

幸福を超える一体感の話(来宮神社にて)

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熱海の来宮神社へ行きました。

 

ここには、樹齢二千年を超える大楠が祀られていて、伊豆のパワースポットで検索すると必ず出てくるから一度行ってみたかったんです。(伊豆ってパワーの強い土地ですよね。とても透明で美しいエネルギーを感じるから私は伊豆が大好き)

その楠の幹は外周が24メートルもあって、日本一だとか。

周りを一周すると、寿命が1歳延びるとか、願い事が叶うと言われているので、浅はかな私は「うひひ5周くらいしたろ」とか思っていたんですよ。

 

ところが、樹に近づくと、それどころではなくなってしまった。

何て言うか、とてもじゃないけど私の「欲」みたいなものをぶつける対象じゃないなと思ったんです。

それは、神木の存在が神聖すぎて自分の卑小な願望をぶつけるのが悪いことのように感じた、ということではなくて、

欲を超える大きな存在に魂を掴まれたという感じ。

 

そして胸をいっぱいにしながら、ゆっくり木の周りを歩くと、願望とか希望とか夢とかってどうでもいい気持ちになってきたんです。

もっと言うと、すべては小さなプロセスでしかないんだと思った。

 

この大木のそばで感じているような宇宙的で絶対的な安心感を疑似体験するために、もしかするとひとは「幸福」を求めるし、

そしてさらにその「幸福」にこの短い人生の中で近づく手段として、夢や希望を叶えたいと思うのかもしれないとその時感じました。

そういう、夢とか希望とか幸福というものをすべて包み込んで余りある愛をその木の波動から私は受けとりました。

 

絶対的なものに守られている、人が求めてやまない愛の源に抱かれているような安らぎの中で過ごした昼さがりは感動的でした。

 

 

こうしてじんわりと喜びに浸っていたら、スピリチュアルなお仲間たちから立て続けにLINEが来たし、なんか良い日。

 

最近、森林に俄然興味が出てきて、森ガールならぬ森熟女ですわ。

森ガールブームだった2009年頃、私はブリーチした頭で豹柄のコートを着てゆるくてフワついたすべてのものを鼻で笑っていましたね。

人って変わるもんだね。

そして、人が変わるというのは、行くところまで行って自分と向き合うしかなくなって、覚悟をきめて傷を癒した時かもしれません。

心の傷というのは、自分に優しくすることを難しくします。

だから、「自分に優しくする」という簡単そうに見えるエクササイズが、とても厳しいものに感じられることもあるかもしれません。

 

思うんだけれど、思考っていうのは独立した存在として意思を持っている。

「私なんてダメだ」という思考は、ありとあらゆる手段を使って、「私なんてダメだ」を証明しようとするし、それが「嘘」とバレないように、必死で正当化しようとします。

そこにハマってしまって「私なんてダメだ」から抜け出せなくなってしまっている人は多いかもしれません。

でも、思考は意思を持った存在で、自分のアイデンティティ(=ここで言うなら「私なんてダメだ」)を守るためにどんなことでもするし、どんな嘘もつく手強いヤツなんだと認識しておけば、しつこい思い込みを手懐けるのにすこし役に立つかもしれません。

 

そんな手強い「思い込み」の弱点は、思い込みの元になった幼い頃の傷にあるように思うのです。

傷を負った幼い「私」を助けてあげると、「思い込み」は足場を奪われて消えるしかなくなる。

反対に、現在の「私」が癒されることで、過去の感情も救われたりするよね。

 

 

 

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