ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

恋の焼け野が原から脱出する方法①〜女子たちよ大志を抱け〜

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前回、女性を傷つける男たちのメンタリティを考察しました。

 

lovefoxx.hatenablog.com

 

今日はその続き、その沼からどうやって抜け出すかを考えてみたいと思います。

つまりこれは、不毛な男女関係に陥る女子のメンタリティの考察でもあります。

グサっとくる表現があるかもしれませんが、どんな状態にもそうならざるを得ない理由があるという前提で、自分を責めずに読んでくださいね。

 

 

女性の好意を栄養に自己肯定(というより自己正当化)している男性たちは、根本的に女性を憎んでいるし、なにより自分のことが嫌いで、女性が自分のために傷つくことで気休めを得ようとしている、というようなことを書きました。

 

じつは、そういう相手になってしまう女性たちもまた、自分のことを嫌っています。

 

いつも同じような不毛な男女関係に陥る「自分嫌い女子」にはある共通項があるように思います。

それは、常に自分を「他人軸」で冷たく批評して、基準を満たせない自分を責めているということです。

他者の基準に完璧に沿うことは、確かめられないという意味でも不可能なので、たえず自己否定感があり、「自分」というものを見失ってしまっています。

 

人の期待に応えるために、もしくは人からの承認をもぎ取るために、めちゃくちゃ頑張る人もいます。

こういう人たちは、キャリアウーマンや、見惚れるような美人、またはモテる人も多いです。

過剰に謙虚な人もいれば、上から目線な人もいます。

一見自信家に見えることもありますが、本当は自信のなさゆえだったりします。

 

逆に、人の期待に応えることを諦めて、そんな自分を心底軽蔑している人もいます。

こういう人たちは、全体的に殺伐とした雰囲気を漂わせていたりします。

こちらも一見すると我が強い人も多く、「人の事なんか考えていなさそう」に見えることもありますが、それもやはり被害者意識の裏返しです。

 

がんばり型からあきらめ型へ移行する人も多いように思います。

 

いうまでもなく、ですが、これも幼少期につけられた傷が原因だったりします。

つまり、「他人軸」の原型は、「親の軸」ということです。

たとえば、家族の中心で無条件の愛情をたっぷり注がれるはずの幼少期に(まぁ、完璧な愛情を注がれて育った子供なんてほぼいないと思いますが)、なんらかの役目を果たさなくてはならなかった場合、それによって親を助けていた場合、

あるいは、学校の成績や容姿など、条件付きの愛情でコントロールされていた場合、

「親の期待に添えるから愛される私=ありのままの私では愛されない」という自己像を持ってしまうことがあります。

また、なんらかの理由でお母さんの情緒が不安定だったりすると、どこに地雷があるかわからない母親の機嫌を常に伺うことになり、「愛されている」という安心感をとてもじゃないけど持てないまま、大人になってしまうこともあるかと思います。

さらに、がんばって役目を果たしても愛されなかった場合、「私には生きる資格がない」とさえ思ってしまったり。

 

そういう女性たちを見ていて私がなんとなく感じていたのは、「世界との接続のユルさ」です。しかしそれはそのまま、「自分との接続のユルさ」だと気づきました。

自分がここにいない、いる価値がわからない、というフワフワ感。

もしくは、たえず自分を何かで牽制している、いっぱいいっぱい感。

 

そんな女性たちが恋する相手というのは、

「無価値な自分の値打ちを上げてくれそうな人」

「嫌いな自分を代わりに愛してくれる人」

です。

刺激的だったり、レベルの高い相手にばかり恋をする人、

もしくは、「好きなタイプは尽くしてくれて連絡がマメな人」みたいな受け身の理想を掲げる人、

自分に依存してくれるダメンズを渡り歩く人、あるいは不倫がやめられない人もいます。

彼女たちは惚れっぽい一方で、自己否定ゆえに、自分に好意を寄せる誠実な男性を見下していたり怖がっていたりもします。

 

そして、そういう「自己否定女子」と、がっちりエネルギーが合ってしまうのが、前編で書いた「自己否定男子」なのです。

自己否定ゆえに死に物狂いの努力をした男性ほどステイタスが高かったりして、(地位だけでなく、博識だったりセンスや話術を磨いていたりして)

「自分の無価値を男性に埋めてもらいたい」女性とマッチングが起こるわけですね。

 

両者は、「恋」という名の憎しみを媒介に、壮絶なマウント合戦を繰り広げます。

「愛」の与え合い、ではなく、「愛」の奪い合いです。(むろん、すべての恋愛にその要素はありますが、より激しいのです)

 

一方的に好きにさせて好意を搾り取るのも、

自己犠牲的に尽くすことで相手を支配しようとするのも、

愛されたいからすぐに体を許すのも、

愛を試すために自分の価値を釣り上げようとするのも、

雑なセックスをするのも、

それでも相手に合わせてしまうのも、

女性経験(男性経験)を自慢するのも、

「尊敬できる人がたまたま既婚者だった」みたいな理由で不倫を繰り返すのも、

モラハラやDVも、それに耐えることも、

すべては「自己否定」「無価値感」がベースにあります。

 

ここで知ってほしいのは、「自己否定」も「無価値感」も、すべては「愛されたいから」生まれる感情だということ。

「ダメな私=愛されるに足りない私=本当は愛されたい私」

です。さらに言うなら、人間だれしも「ありのままで愛されたい」と願っています。

まず、その本音にとことん寄り添ってあげてほしいと思います。

 

「ありのままで愛されたいとか、そんなムシのいい話はねーよ。これだからスピリチュアルはよ」

と、思うかもしれませんが、(思っていたのは昔の私です←)

そのままの自分を愛されたいこと、愛されなかったら傷つくこと、すべて人間として当然の感情です。

恥ずかしいものでもなければ、弱さなんかじゃありません。

それを「ムシがいい」と頭から否定してしまうのも、愛されたいがゆえの予防線なんですよね。

 

自己否定の下にあった、本当の気持ちはなんでしょう?

傷つけられたことへの怒りかもしれません。

では、怒りの下には何があるでしょう。

大切にして欲しかった、わかってほしかった、寄り添って欲しかった、いちばん大事にしてほしかった。

そういう柔らかい気持ちではないでしょうか。

 

 

 

……気合を入れ過ぎて1エントリーで終わりませんでしたので、今回はここまで。

次こそ最終章、具体的な「脱出方法」を考えてゆきたいと思います。

 

 

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「自分を責めちゃダメ!」も苦しいよね。

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自分を愛することの大切さって、もしかすると「自分を愛せてない」と感じている人の多くが、耳にタコができるくらい聞かされたかもしれないと思うんですよ。

 

ちなみに私、初めてみちよさんのセッションを受けたとき、「自分を愛しなさいって1万回くらい聞かされたけどまったく意味がわかりません」

って遠い目で言ったの覚えてるからね。

 

そんな時の私が考えていた「自分を愛する」とは、今の自分ではない、素敵な誰かに成長して、その姿に酔うことだと思っていた。

だから、素敵な自分になるためのHow toをずっと必死で探していたんですよ。

それは職業だったり若さだったり容姿だったり性格だったり、「こんな彼に愛されたら自分のことも好きになれるのに」と思うような魅力的な男性だったり。

 

でもそれってベースに自己否定があるのね。

「ありのままでは愛されない」という恐れが、側から見たら「向上心」と呼ばれて美化されるかもしれない死に物狂い感を生んでいたわけ。

 

で、はたと「そうか、自分を愛することは、ありのままの私を受け入れることなんだ!」

と気づいて、それは大きな進歩なんだけれど、

いままで自分を責めまくってた分、

「私は一切わるくない、なにも悪くない、悪いのはぜんぶあいつら私はまじで悪くないから何ひとつ」

みたいな開き直りが一瞬起こった。

だけど、それって敵を自分の内側から外側に移しただけの偽の自己肯定であって、嘘なんですよ。苦しいんです。

 

たとえば、仕事でミスをしたとします。

ふつう、人間だったら、「やべーやっちまった」とか、「いやー!すんません」とか、思うのが自然だと思う。

大事なのは、それを「なんて私は無能なのか」という自己否定と結び付けないこと。

「やっちまったけど、仕方あるまい、人間だもの」というところに落ち着けられるのが健全な自己肯定というやつで、

「あたし全然悪くないしー!」と無理やり開き直るのは、嘘っていう意味でかえって自分いじめになるのね。

そうなるくらいな、「私は自分を責めているなぁ」と認めてあげたほうがいいです。

どうも適切な罪悪感というのは、心を守るために必要なことなんですよね。

 

ムダ毛だって必要だから生えているんだ(いきなり何を言い出すのか)だからスピ界隈では何かとムダ毛扱いされがちな罪悪感も、必要だから起こっている。

暴走させないよう、適切に手懐けるのが正解なんだね。

 

さてその線引きはというと、心の奥がザワっとするか、ほっとするかで判断してください。

「私は悪くない」

が、すこし苦しい気持ちと共にあったら、それは嘘かもしれません。(つまり、私が悪いんだ!と思ってしまっているということ)

「私は悪くない」

と思えることでほっとしたら、それが正解です。あなたは悪くないです。

 

「自分を愛する」も同じで、無理やり思い込むことではないのです。

むしろ、「全然愛せない、私はまじでダメな奴だ」と思っている、その気持ちに静かに寄り添ってあげてほしいです。

だって仕方ないじゃない。そう思ってしまってるんだから。

ネットでも雑誌でも恋愛コラムでもYouTubeでも、耳にタコができるくらい聞かされている「自分を愛する」という言葉。

あんなに言われたら、できない自分を劣等生のように感じてしまうよね。(私も言ってますしね)

でもそれだと可哀想なんですよ。

周りからもやんやんいわれて、自分でも「なんで自分を愛せないんだよ!」と思ってしまうと、

自分をうまく愛せないんだよねー、私ってダメな奴だなぁと感じてしまっている本音の「私」には、いったい誰が寄り添ってあげるのでしょうか。

 

そして、その「あーあ私ってダメな奴」にとことん寄り添って、否定しないで味方でいてあげる。「自分を愛せない私」もまるごと肯定してしまうことことこそが、「自分を愛する」だったりしますよ。

 

 

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幸福を超える一体感の話(来宮神社にて)

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熱海の来宮神社へ行きました。

 

ここには、樹齢二千年を超える大楠が祀られていて、伊豆のパワースポットで検索すると必ず出てくるから一度行ってみたかったんです。(伊豆ってパワーの強い土地ですよね。とても透明で美しいエネルギーを感じるから私は伊豆が大好き)

その楠の幹は外周が24メートルもあって、日本一だとか。

周りを一周すると、寿命が1歳延びるとか、願い事が叶うと言われているので、浅はかな私は「うひひ5周くらいしたろ」とか思っていたんですよ。

 

ところが、樹に近づくと、それどころではなくなってしまった。

何て言うか、とてもじゃないけど私の「欲」みたいなものをぶつける対象じゃないなと思ったんです。

それは、神木の存在が神聖すぎて自分の卑小な願望をぶつけるのが悪いことのように感じた、ということではなくて、

欲を超える大きな存在に魂を掴まれたという感じ。

 

そして胸をいっぱいにしながら、ゆっくり木の周りを歩くと、願望とか希望とか夢とかってどうでもいい気持ちになってきたんです。

もっと言うと、すべては小さなプロセスでしかないんだと思った。

 

この大木のそばで感じているような宇宙的で絶対的な安心感を疑似体験するために、もしかするとひとは「幸福」を求めるし、

そしてさらにその「幸福」にこの短い人生の中で近づく手段として、夢や希望を叶えたいと思うのかもしれないとその時感じました。

そういう、夢とか希望とか幸福というものをすべて包み込んで余りある愛をその木の波動から私は受けとりました。

 

絶対的なものに守られている、人が求めてやまない愛の源に抱かれているような安らぎの中で過ごした昼さがりは感動的でした。

 

 

こうしてじんわりと喜びに浸っていたら、スピリチュアルなお仲間たちから立て続けにLINEが来たし、なんか良い日。

 

最近、森林に俄然興味が出てきて、森ガールならぬ森熟女ですわ。

森ガールブームだった2009年頃、私はブリーチした頭で豹柄のコートを着てゆるくてフワついたすべてのものを鼻で笑っていましたね。

人って変わるもんだね。

そして、人が変わるというのは、行くところまで行って自分と向き合うしかなくなって、覚悟をきめて傷を癒した時かもしれません。

心の傷というのは、自分に優しくすることを難しくします。

だから、「自分に優しくする」という簡単そうに見えるエクササイズが、とても厳しいものに感じられることもあるかもしれません。

 

思うんだけれど、思考っていうのは独立した存在として意思を持っている。

「私なんてダメだ」という思考は、ありとあらゆる手段を使って、「私なんてダメだ」を証明しようとするし、それが「嘘」とバレないように、必死で正当化しようとします。

そこにハマってしまって「私なんてダメだ」から抜け出せなくなってしまっている人は多いかもしれません。

でも、思考は意思を持った存在で、自分のアイデンティティ(=ここで言うなら「私なんてダメだ」)を守るためにどんなことでもするし、どんな嘘もつく手強いヤツなんだと認識しておけば、しつこい思い込みを手懐けるのにすこし役に立つかもしれません。

 

そんな手強い「思い込み」の弱点は、思い込みの元になった幼い頃の傷にあるように思うのです。

傷を負った幼い「私」を助けてあげると、「思い込み」は足場を奪われて消えるしかなくなる。

反対に、現在の「私」が癒されることで、過去の感情も救われたりするよね。

 

 

 

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女嫌いな遊び人について〜叩き上げヤリ○ン考〜

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※今日は男女の泥臭い話なので下品なワードが頻発します。

 

 

まあ世の中にはひどい男ってのがいますわね。(漫談かな?)

 

いろんなタイプの「ひどい男」がいますけど、今回は暴力とかギャンブル狂いとか借金大王とか酒癖が非人道的とか、そういう昭和の芸人的な「ひどい男」ではなくて、

優しい態度で女子に近づいて、女子の好意を搾り取るだけ搾り取ってボロボロにしていくタイプの、いわゆる「ヤリ○ン型」、「タイプ渡部」とも言えるか。

そういう型のひどい男について。

 

これは私が憎しみに燃えて奴らを毛穴の奥まで観察して導いた結論なんですけど(一体何があったんだよ)、、

 

あの人らって、まず自分を好きになるような女性が嫌いなのね。

「好きになってくれる相手」「精神的に支配できる相手」というのが、自分の自信のなさを誤魔化して正当化するために必要だから手元に置いておきたいんだけど、

彼女たちの内面は嫌い。

ひとつの理由は、ヤリ○ンに惹かれる女子と、ヤリ○ン自身というのが合わせ鏡のようによく似ているからです。

 

……すいませんねなんか伏せ字だらけで!

これに類似したワードを探したんだけど、「スケコマシ」とか死語を超えて化石語。。

近いのが「チャラ男」かもしれないけど、必ずしもチャラくないんですよ、ヤリ○ンは。

ふつうにインテリでもオタクでも爽やかグルメ芸人でもいます。

話を戻します。笑

 

両者はとてもよく似た傷を持っている。

彼女の中に、自分の大嫌いな部分を見るから憎しみを持つのだと思う。

 

その傷というのはたとえば、幼少期や思春期に女性から馬鹿にされたり、欲しかった愛を貰えなかった経験があったりして、女性全般を漠然と憎んでいるとかね。

或いは、自分を虐待したお父さんがすごい遊び人で、男子として傷ついた尊厳を取り戻すためと、父親倒しの一環でヤリ○ン道を歩んでるって人もいた。

まあいずれにせよ、彼らは自己否定が強いので、「こんな俺を好きになるような女」ということで、相手を軽蔑しているんですわ。

同時に、彼らにとっての女性関係というのは、復讐のためという側面もあるように思う。

 

自分に好意を寄せてくれる女性を罠にかけて「好き」を搾り取るために、最初は歯が浮くほど甘いことも平気で言うんだけど、関係が深くなるに従って彼らはモラハラ的な言動が目立つようになります。

たまにメールしてきたり、会ったりするのは、ずっと好きでいてもらうための(それによって相手をさらに追い込むための)最低限の投資。なので、「体だけが目当て」というのはちょっと違うのね。

性欲もあるんだろうけど、セックスすら投資に含まれることもある。

相手が離れようとすると追いかけてきたりするのも、同じ理由です。

 

ようは、「好き」の安定供給が見込めるようになると、エンジンを切ってベースにある「憎しみ」で相手に接するようになるのね。

つまり、モラハラだったり雑な態度だったり、堂々と浮気をしたり、自分本位なセックスをしたり、女子の尊厳を踏みにじるようなことを平気でする。

 

なんでかっていうと、傷付けたいからですね。

相手の心を引っ掻き回して傷つけて、自分のためにボロボロになればいいと思っているのよー。ひどいね。

自分のために、であり、自分に代わって、でもあるかな。

つまりそれだけ、女性を傷つけることでしか埋まらない欠乏感が彼らの中にあるということ。

それでキレた女子から反撃を食らって罵倒されたり傘で殴られたりして罪悪感を持たされるから、ますます女嫌いになる。

という悪循環の中にいる。

そしてこの一連の流れを起こす心の動きを、彼らの多くは自覚していないようにも思える。

 

とはいえ、「ひどい男」というのも性質でなくて状況だと私は思うのでね。彼らもある意味では被害者なのだ。

 

しかし、そんな男を救ってあげようとボロボロになりながら女子が頑張ることはまちがいなく徒労に終わる。

なぜなら、「救ってあげたい」も執着であって、相手を支配したいという憎しみの裏返しだから。男にもそれが伝わるから。

ていうか本当に救ってあげたいのは自分自身なのかもしれないですよね。

自分を救ってあげよう。

 

というわけで、そんな男の元からは一刻もはやく立ち去るのがいちばんなんだけど、

それが出来たら苦労しねぇよって話ですよね。

 

万が一、どうにかこうにか逃げおおせても、また似たような男に引っかかるしね。

だから自分を、そういう男たちと「似てない女」にするしかない。

それができないうちは、おんなじ沼にハマり続けるからめっちゃわかりやすいのです。

 

ちなみに、ヤリ○ン君と「似た女」というのは、必ずしも「軽い女」「ひどい女」という話じゃなくてね。

共鳴しているのはもっと深い部分の心の欠乏感。

そこにはやはり、「愛を搾り取りたい」という、漠然とした男への憎しみがあることも多いように思う。

たとえば、タイプ渡部にボロ雑巾のように扱われながら、片方では自分を好きになってくれる誠実で地味なタイプの男性を馬鹿にしてたりするわけです。

一時期流行ったサークルクラッシャーとかさ、真面目な男子たちの心を弄びながら、自分自身もどっかのチャラ男にコマされて病んでたりするじゃない。

まあみんながみんな、そんな攻撃的な表現をするわけではないかもしれないけど。

とにかくヤリ○ンというのは、自分と同じ欠乏感を持った、自分の毒牙に引っかかりそうな女子を嗅ぎ分けるのが抜群に上手いのです。

 

 

長くなってしまったので、

次はそういう「愛の不時着」ならぬ、「愛の焼け野が原」からどうやって脱出するかについて考えます。

燃えるぜ!(は?)

 

 

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幸せになる覚悟

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先日、みちよさんのブログで紹介して頂いてからたくさんの方にモニターセッションのご応募を頂いて、驚きと共にとても嬉しく思っています。(おかげさまで9月の席がほぼほぼ埋まりました)

 

毎回毎回反省はあるんですけど、そして途中でワケがわからなくなってしまい、「あーーー、、、どうしよ」と天を仰ぐような気分になることもある(あるんかい)。確かにあるが、それ以上に私はモニターさんそれぞれの中に大きな光を見ていて、その輝きをどう伝えようかと思う。

あんまり伝えられないときもあると思うんだけど。

 

 

悪いものを取り除くっていう改善方法もこの世にはあるけれど、「悪いもの」っていう概念はスピリチュアルとしては無いですよね。少なくとも、私の学んだスピリチュアルには無いです。

たとえば、「性格が悪い」とかってよく言うけれど、それも解体すれば、自分の心の穴と、性格が悪く見える相手の心の穴の共鳴だったりする。

だから、引き寄せで「性格が悪い人に出会ってしまうのは自分も性格が悪いからですかね」的な解釈をたまに見かけるけれど、悪いっていうラベルを剥がしたところにある、本質的なニーズの一致なんですよね。「わかってほしい」を我慢する私と、「わかってほしい」を堂々とぶつけてくる相手とかさ。

そこで、「性格が悪い人と出会わないようにするために、清く正しい人間になろう」と自分を厳しく是正しはじめると、さらに自分を否定させるような、ストイックさを強要させる相手と出会う羽目になったりします。

 

そんなわけで話が逸れたけど、

すべての人のなかにはほんとうに大きな力があるんですよね。

魂っていうのはどこまでも強くて美しいよね。

ただ、その周りを取り囲む感情の部分は生きている以上傷つくので、その傷によって物事の捉え方に歪みが生じる。その選択によって人生がかたちづくられるわけです。

 

個性というのも、その歪みの一種だったりするから、人間として生きる以上、歪みゼロを目指す必要はない。ほんとに。

しかし、快適に生きるうえで障害になるくらいの歪み(の元となる傷)は、気付いて助けてあげることで、自分らしいリラックスした状態に戻れるのね。

 

でも人間、あえてその痛々しい状態に甘んじてしまうこともある。

重苦しい不自由さのぬるま湯に首までどっぷり浸かって、それによって痛みを伴う自己改革から逃げたり、なんなら自分をそんな状態にした親への復讐で「不幸」を演じ続けることもある。

 

幸せになるために今の自分を否定する必要は1ミリも無いんだけど、

それでもやっぱり、幸せになるためには覚悟がいります。

「ありのまま」に戻るために、足かせになる意識を脱ぎ捨てる過程は、もしかすると楽なだけではないかもしれない。

私の場合は、わかりやすく怒りのエネルギーをバネに使ったし、「もううんざり!」という所まで行ってやっと目を覚ます気になった。

苦しかったけど、中途半端な苦しさだったら、ずーっとウダウダ言いながらそのぬるま湯にいたかもしれない。

 

なにが言いたいかってと、人の魂はほんとうに強くて美しいのだから、たとえ今しんどくても必ず大丈夫になるっていうことです。

七転八倒したとしても、「ぜっっっったい幸せになる」と決めたら、バーンと起き上がれる日が来ます。

大丈夫だよ。

 

 

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「自然の中で感覚を開く講座」

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やや涼しくなってきた先週木曜、町田に上陸しました。

三浦しをんの「まほろ駅前多田便利軒」の舞台となった町田。そしてかつて、すったもんだの末に痛罵して別れた元カレが住んでいた町田(いらん情報)にわざわざ何をしに行ったかと言うと、

枡田智さん『自然の中で感覚を開く講座』

を受講するためです!

 

枡田さんは貴重なスピ男子なんだけども、同時に理系男子でもあります。

よって、キラフワしたスピリチュアルの言語とは距離を置いたところで世界を眺めている理論派のスピリチュアリストです。(まあスピリチュアルを名乗ることには抵抗があるらしいのだけど。ワイもや!)

 

そんな枡田さんなんですけど、中学生から30歳過ぎまで鬱を患っていたらしく。

なんなら、歳と共にどんどん深刻になっている。いろんなカウンセリングやセラピーを受けたけど良くならない。

それがある時、一冊の本との出会いによって森林に出かけることを思いつき、そこで突如感じた「世界との深い一体感」と共にすっかり良くなってしまったんだって。

そして数年経った今も穏やかで幸せらしい。(まじかよ)

 

具体的に言うと、思考の堂々巡りが止まって、過去や未来への囚われが消失して、「今ここにいる自分」をかつてないくらい強く実感できた。

森の木々たちが一斉にかがやき始め、視界の空が、土が、緑がうねりをもって躍動する命の営みとなって感じられて、そのあり余る豊かさの一員である自己の生命の尊さに同時に目覚めて鬱がぶっ飛んだ。

とまでは言ってないけど、私の理解ではたぶんそんなかんじ。

 

 それでそのニルヴァーナ体験があまりに素晴らしかったから、その方法をどうにか理論化、カリキュラム化できないものかと考えて、数年がかりで編み出した虎の巻がこれです。

ハイヤーセルフに答えを貰いながら作ったらしい)

 

要は、「感じる力を正常化する」ことで、思考に追い詰められた自分を解放し、ここに取り戻すということ。 

思考ってもちろん必要なんだけど、私たちは思った以上に、そして必要以上に思考を使っているし、思考に囚われていることにすら気づかないことも多い。

現代のシステムは、すべてを思考で片付ける方向に、人間の感性を奪う方向に、さらに組織の円滑化のために個人ののびやかさを潰す方向に組まれていて、これじゃあ鬱になる人も増えるわねって話。

 

そこからちょっと降りてみましょうということでね。

それを、スピリチュアル用語をあえて使わずに説明してくれたんだけど、目指す場所はワンネスと呼ばれるものや、あとノンデュアリティという考えに近いかも。

まあこういうのって言葉を変えて世界中の宗教で唱えられているから、誰だって一回くらいは聞いたことはあって、理屈ではなんとなくわかっていても、体感するのが難しいじゃないですか。ワンネス、悟り、世界との一体感、光、愛の世界とかって。

30年くらい山に篭って修行するイメージの世界観じゃないですか。

 

もしくは本気で体感したい人は、つまり楽になりたいからやるんだけど、勉強しまくって、スピリチュアルをジプシーしたり、セミナーに参加したりして加点方式でなんとかその境地にたどり着こうとするわりに、結局実生活では全然楽になれなかったり、そんな自分をさらに責めたり、いつまでも自分を許せなかったりする。

ってことは、加点方式、積み上げ式の学習では無理があるってことですよね。

 

そういう視点で、超実践的に教えてもらえました。細かなコツも満載。精神論じゃないよ!

そしてちゃんと公園に出かけてのワークも組み込まれているから体感することができる。

 

私はとっても気持ちよかったです。

温泉に入って、いちばんほっとする究極の癒しの瞬間が、ずっと続く感じ。

テンションがブチ上がるわけではないけど、大きな安心感に抱かれるので、自分を許せて、他人も許せる。

ほんとうは、ある程度時間をとって、森林とか公園に出かけてセルフワークをして定着させたほうが良いらしいので、折をみて広めの公園に出かけようと思います。

リーディング能力向上にも役立ちそうな気配がすごい。

 

しばらくカウンセラー養成講座にいて、メンタル掘る系のアプローチを練習してきたんだけど(そしてこれからもやるけど)、こういう方法もあるんだなと思いました。

ほんとにみんな、目指すところは一緒でね。

もしかしたら、カウンセリングよりも、こっちの方が合ってる人もいるかもしれないね。

カウンセリングで言われたことを思考だけで処理して、実感が伴わなくなりがちな人は、こういうアプローチを試してみてもいいかもしれません。

 

 

ameblo.jp

 

 

スピリチュアル=愛の選択をするための指針

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タイトルは私のスピの先生であるみちよさんが仰っていたことで、

「ほんまそれや!」と、わかっているようで言語化できていなかったことがクリアになって膝を打ちまくったわけです。

 


【スピリチュアル】愛の選択をする みちよ【ディープメンタリストmichiyo】スピリチュアルカウンセラー ヒーラー

 

 

私が「スピリチュアル」という村に足を踏み入れたのはかれこれ一年半ほど前なんだけれども、けっこうここの人間模様も泥臭くて重いよね。

 

修行僧みたいにストイックに頑張る人がいる一方で、そういう人たちをさらに追い詰める教祖みたいなのがいたり、心の深いところに触れたくないが故に過激な方向に走ったり、劣等感を払拭するために尊大に振る舞ったり、ブログでマウント取り合ったりとかさ。

たとえば、私が「愛の名の元に何かをdisったり排除することはもはや愛じゃないよ」って主張すること自体、そういう人間的な陣取り合戦のひとつでしかないみたいな。

 

けっきょく、誰が正しいことをいうかっていう宗教戦争に突入してゆくのなら、ある時、もうあんまりそこに行きたくないと思ったんですよ。

私が「これが正しい」って思っていることも、誰かにとっての「これが正しい」と同じウエイトなわけで、ぶつけあってもべつにいいことは無いというか。どこのラーメン屋の店主も、「ウチがいちばん美味い」と思っている。

で、「ウチがいちばん美味い」を証明することが目的になってしまって、そもそものところの「ラーメンで誰かを幸せにしたい」「ラーメン作るのまじ楽しい」の部分が置き去りになるってことは本末転倒だけどよくある話よね。

 

スピリチュアルで言ったら、なんのためのスピリチュアルなのか、自分の正しさを証明して承認を得るためなのか、誰かに気に入られるためなのか、もしくは、誰かの上にたつためなのか、下手したら有名になったりお金を稼いだりするツールとして、復讐のために使われることだってあるかも、、

というときに、そうだそもそもスピリチュアルというのは愛の選択をするための指針だった。

ということを、ずっと心においておきたいと思った。

その軸さえ持っていれば何かいろいろ大丈夫な気がしたのだ。

大丈夫っていうのは、もし私が業界としてのスピリチュアル村を離れたとしても、「愛の選択をする」という信念が心の中に生きている限り、それは私を支えてくれるだろうし、私はスピリットな存在であり続けるだろう。

天使とか守護霊とかサイキック能力とかと一切縁が無かったとしても。

 

動画の中にもあった話だけど、「選択しない」という選択肢は優しい、人を楽にするものだ。

「選ばなくちゃいけない」ことなんて、本当は思ってるほど多くないのかもしれない。

何かを得るためには何かを失わなくてはならないと、強引に選んだから失ってしまったことが人生にはたくさんあったかもしれない。(選べないことで両方失う、ということもあろうが)

 

その時々で自分にとって気持ちいい、ちょうどいい「愛の選択」の積み重ねで毎日をやってゆきたい。それがたとえ「スピリチュアル」という名前でなくてもいい。