ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

スピリチュアル=愛の選択をするための指針

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タイトルは私のスピの先生であるみちよさんが仰っていたことで、

「ほんまそれや!」と、わかっているようで言語化できていなかったことがクリアになって膝を打ちまくったわけです。

 


【スピリチュアル】愛の選択をする みちよ【ディープメンタリストmichiyo】スピリチュアルカウンセラー ヒーラー

 

 

私が「スピリチュアル」という村に足を踏み入れたのはかれこれ一年半ほど前なんだけれども、けっこうここの人間模様も泥臭くて重いよね。

 

修行僧みたいにストイックに頑張る人がいる一方で、そういう人たちをさらに追い詰める教祖みたいなのがいたり、心の深いところに触れたくないが故に過激な方向に走ったり、劣等感を払拭するために尊大に振る舞ったり、ブログでマウント取り合ったりとかさ。

たとえば、私が「愛の名の元に何かをdisったり排除することはもはや愛じゃないよ」って主張すること自体、そういう人間的な陣取り合戦のひとつでしかないみたいな。

 

けっきょく、誰が正しいことをいうかっていう宗教戦争に突入してゆくのなら、ある時、もうあんまりそこに行きたくないと思ったんですよ。

私が「これが正しい」って思っていることも、誰かにとっての「これが正しい」と同じウエイトなわけで、ぶつけあってもべつにいいことは無いというか。どこのラーメン屋の店主も、「ウチがいちばん美味い」と思っている。

で、「ウチがいちばん美味い」を証明することが目的になってしまって、そもそものところの「ラーメンで誰かを幸せにしたい」「ラーメン作るのまじ楽しい」の部分が置き去りになるってことは本末転倒だけどよくある話よね。

 

スピリチュアルで言ったら、なんのためのスピリチュアルなのか、自分の正しさを証明して承認を得るためなのか、誰かに気に入られるためなのか、もしくは、誰かの上にたつためなのか、下手したら有名になったりお金を稼いだりするツールとして、復讐のために使われることだってあるかも、、

というときに、そうだそもそもスピリチュアルというのは愛の選択をするための指針だった。

ということを、ずっと心においておきたいと思った。

その軸さえ持っていれば何かいろいろ大丈夫な気がしたのだ。

大丈夫っていうのは、もし私が業界としてのスピリチュアル村を離れたとしても、「愛の選択をする」という信念が心の中に生きている限り、それは私を支えてくれるだろうし、私はスピリットな存在であり続けるだろう。

天使とか守護霊とかサイキック能力とかと一切縁が無かったとしても。

 

動画の中にもあった話だけど、「選択しない」という選択肢は優しい、人を楽にするものだ。

「選ばなくちゃいけない」ことなんて、本当は思ってるほど多くないのかもしれない。

何かを得るためには何かを失わなくてはならないと、強引に選んだから失ってしまったことが人生にはたくさんあったかもしれない。(選べないことで両方失う、ということもあろうが)

 

その時々で自分にとって気持ちいい、ちょうどいい「愛の選択」の積み重ねで毎日をやってゆきたい。それがたとえ「スピリチュアル」という名前でなくてもいい。