ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

歓楽街でつかまえて!(過去世の話)

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(日本映画史に残る西川峰子の死にざま)

 

 

 

あの情熱の正体が一体なんだったのか、今でも説明がつかない。

あれほど強く何かを所望したことは人生で他になくて、私の意思とか憧れを超えたところで、「動かされていた」としか言いようのない衝動を抱えて私は少女期の何年かを過ごした。

 

地元のデパートに来た芸妓さんを見て、

「あ、これだ」と思ったのは4才の時。

「大きくなったら芸妓さんになりたい」と言った私に、母親は「お母さんはあなたにそういう仕事はしてほしくないの」と、言った。

当時はなぜ母親がそんなことを言うのかわからなかったけれど、花柳界と呼ばれるその世界がなぜだか私の帰る場所のように思えた。

 

17才までその気持ちを持ち続けた私は、両親に内緒で祇園置屋にコンタクトを取り、面接を受けたい旨を伝えた。

置屋は後継者不足で、いつでも面接を受けさせてくれるとのことだった。ただしそれには条件があった。未成年である以上、親の同意は絶対であること。

私はある日両親へ向けて手紙を書いた。

「高校を辞めて、京都へ行って芸妓になりたいです」

怒り狂った母は、「あんたがそんな仕事に就くくらいならお母さんは死にます」と言った。父も私の味方をしてくれなかった。弟も。

「綺麗な着物を着たいだけならそういう仮装ができる店があるじゃないの」

日舞をやりたいなら習えばいいじゃない」

「あんたがそんな仕事をしたら、親戚に向ける顔がない」

「お母さんの立場も考えなさい」

無理もない話なのだけれど、私の気持ちは何一つ伝わっていなかったし、伝えようとすることももはや無駄だった。

母はいかにも保守的な昭和の女で、なおかつ自分の意思ではなくて姑の顔色が行動の指針ですらあったので、仮にも一人娘を水商売に送るなど大袈裟でなく死に等しかったのだろう。

そして娘が女として花開くことへの嫌悪。

「ああ、もう無理なんだ」

10年以上持ち続けた希望に隔たる絶望的な溝を知ってしまった私は、その家族会議の場で長く伸ばした髪をばっさりと切り落とし、家を飛び出した。

 

私の花柳界への不思議な愛憎は、人生のあらゆる箇所で、説明のつかない感覚として今でも顔を出す。

たとえば、街を歩いて、「かつてそういう場所だった」エリアに足を踏み入れると肌感覚でわかる。そこに漂う、寂寥を帯びた「祭りのあと」のような暗い艶めきに、心が波立つ。

昔からそれを題材にした本や映画には手が伸びてしまう。(「吉原炎上」のビデオをあんなに繰り返し観た子供はいないのではないか)

 

東京だと、吉原や神楽坂。赤坂に新橋。深川、向島、渋谷の円山町とかね。

過去世の話を最近になって知って、魂がゆかりのある場所に行くと懐かしい感覚を覚えると聞いたとき、ああ、そういうことなのかなと、思った。

 

ちなみに私が受験で上京した時、いちばんに行った場所はディズニーランドでもお台場でも原宿でもなく、なんと「吉原」!

しかも、「通いの客は浅草から徒歩で日本堤を通って行った」という文献のまま、当時のルートに従って歩いたらびっくりするほど遠くて「今も昔も野郎どもの性欲の持久力はすごい」という無駄な発見を得たのだった。

ようやくたどり着いたのは宵の口。出勤途中のお姉さんたちに混ざって、同時に客引きのおっちゃんたちの視線を浴びながら、紫のネオンが照り返すその土地の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

「ああ、やっと来れた」と、思った。

懐かしくて切なくて、胸が苦しかった。

 

もしも過去世というものが本当にあるならば、そして現世での私の中に、その記憶がわずかでも偏在しているのならば、きっといつか、私はこの場所にいた。

吉原か京都か、はたまた別の場所かはわからないけれど、男たちが金で女を買い、華やかな文化と風俗が花開いたその裏で、女たちの無念が人知れず闇に溶けていった場所。

もしくは、その跡地として、同類の文化を継承しながら幾多もの男女の物語をしみ込ませた土地。

 

私はそこで、働いていたのか、働かせていたのか、はたまた女を買う旦那の立場だったのか。

感情のうえで遊女と芸者の隔たりがないあたり、立場より場所への執着のようにも思える。

時代を前後して、複数の立場で複数の花街に関係してきたのかもしれない。

 

 

 大人になって私はベリーダンスを習い始めたのだけど、

これは、かつて敗れた「芸妓になる」夢(もっと言えば、花柳界への回帰願望)をエッセンスとして叶えたと思っている。

ベリーダンスはかつてオスマン王朝のハレムで王様たちをもてなす踊りとして発展した歴史があるのです。近現代では、男に見せるより女性の主体性や自己表現という精神的支柱がメインだけども。

 

デフォルメされた過剰な「女っぽさ」への憧れも、たぶんこの辺の過去世と関連している。

男だったのかもね、だいたいの時代において。

 

人生の不具合のすべてを過去世のせいにしてしまうのって幸福に対して無責任な気がしてあんまり好きじゃないけど、

肉体が尽きたらすべてが終わりだとも私は思わない。

「精神は脳という肉体の一部に依存するので、人は死んだら灰になるだけ」と頑なに信じるのは、「宇宙人なんて絶対いない亅と、現代科学に無根拠な万能感を寄せて言い切ることと同じくらいオカシな話なのかもよ。

 

 

あ、そうだ。

UFOについてだ。「田舎はヤンキーが多いからね」と同じノリで「田舎はUFOが多いからね」と私がふつうに思っていることに関してはまたこんど書くことにするね。