ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

「愛されない不安」とは戦わない。

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「どうせ私なんて」を拒絶しない。
「どうせ私なんて」に陶酔しない。

 


枯れ木のようになっていた自分軸がここ一年弱ですくすく育ってくれて、心をよく守れるようになってきたので、
ほんとに今までと比べて別人みたいに私は元気になった。

 


それでも時々、「私なんて」という感情に飲まれて落ち込んでしまう時がある。
そんな時は、自分を責めているので、
「自分を責めちゃダメ!」と、自分に対して正しいことを押し付けると二重の叱責になってしまうのが意識のトリック。

 

時々、暴走機関車のように暴発するナルシズムの、制御不能な芯の部分には、小さい私が住んでいて、
「愛されたい!」と必ず叫んでいる。


「こんな私じゃ愛されない」
「価値がない」
という気持ちで自尊心が粉々になりそうな時というのは大抵、私に無い「愛され要素」を持っているように見える他の誰かと自分を比較してしまう時なのだ。
美しさや若さや性格の素晴らしさ。

「あの人みたいに◯◯だったら愛されるのに」「◯◯じゃない私には価値がない=愛されない」

とかね。

 

自分と人とを比較する必要はない。
これは頭ではよくわかっていること。
しかしその反面、
自分と人とをつい(たまたま)比べてしまった結果「劣等感」を持ったというのは原則的に無いとも思っていて。


人との比較で劣等感を持ってしまう人(まあ私である)というのは、絶えず自分と他人とを比較ベースで見ていると思うのね。(ああ!内観の痛いところ!)

もちろん四六時中ってわけじゃないにせよ、人生のかなりの価値判断が他人との比較に委ねられている。

「あなたは素敵」が「私は素敵じゃない」に繋がる図式はただのエゴのカラクリなのだ。

だから、目の前の誰かがとても素敵でも、私が劣等感を覚える必要なんかひとつもない。

でも、やっぱりどっかで思ってしまうことがある。「私はだめだな」って。

 


それもこれもすべて
「愛されたい」

「愛されないかもしれない」

から来ているんですよね。

で、それをもっと掘り下げてゆくと、

「愛されたかった」

と、涙をぽろぽろ流す幼い私がいる。

 


もう1ミリの自慢にもなんないけど、「愛されない不安」とは死ぬほど戦ってきたから私。
で、勝てたことは一度も無かった。
勝てたように見えたのもそれは錯覚で、それこそスピ系とか恋愛系のブログを読むと、
「不安になる必要はない。あなたは充分愛されています」とか、はたまた
「親に感謝して親との関係を良くしろ」とか、
挙げ句の果て
「すぐ不安になるような重い女は嫌われる」とか、散々書いてあるわけ。


でもどの言葉が「抗不安」に役立ったかってと、それはもう数少ない。


だからもう、「愛されない恐れ」「人より劣っている恐れ」「私には価値がないんじゃないかという恐れ」とは一切戦わないことにした。
だって意味がないもん。勝てないもん。
そこにある「恐れ」は、もう存在してしまっているので、理性の力で無いことにはできないのだよ。


無かったことにするために(=見ないふりをするために)頑張るより、
怖がっている小さい私、「愛されたい!」と叫んでいる小さい私にとことん寄り添ってあげることのほうが、誰かの言葉で心をスピリチュアル・ドーピングするより遥かに有効なのではないかな。

お化けを怖がるかわいい女の子を抱きしめるみたいにして、
「そうだね、怖かったね、一緒にいてあげるから大丈夫」

「愛してるからね、必ず助けてあげるからね」
と、そんな100%の愛の気持ちで。

 

人と自分を比べて苦しい時、自分を責めたり相手に嫉妬したりして苦しい時は、そんな感情を見ないふりするのではなくて、
ああ、私は愛されたかったんだな
と気づいてあげるだけでも大きく違というのが最近のひとつの大きな気づきなのだった。

 

ちなみに、「愛されたい」「愛されない不安」から目を逸らし続けた結果に起こるひとつの破綻が、妬みからくる他者への攻撃なんじゃないか、と。

ネットとかね、芸能人や有名人にたいするひどい罵詈雑言が並びますやん。

知っての通りあれの多くが嫉妬なのだし、そこを因数分解してゆけば、

「あなたみたいに◯◯だったら私も愛されたのに!」

という悲しみの声がきこえてくる。

それは裏を返せば、どんなドス黒い言葉を吐く人の心の中にも、愛を求める気持ち(光の部分)があるということで。

 

それは私にとってはぜんぜん他人事じゃなく、彼らの行いをばかにするのは簡単だけど、出来るものならば世界中すべての人の中に自分を見つけたいと思っている私は、けっして匿名の攻撃者たちを笑い者にはできない。