ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

他者への不寛容さをスピ目線で紐解く

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職場の体制が変わってストレスのかかることが増え、自己否定から自分を守れなくてサイゼリアの赤ワインをデカンタ(大)で一本空けた夜などは、やはりもののあわれを感じるわけです。

 

そしてベロベロに酔っぱらうに任せて近所の健康ランドに突撃してひとっ風呂浴び、厚着に甘えてノーブラで帰宅したら、翌日外出先のバッグの中から昨晩放りこんだブラジャーが出てきて、そこでふたたび、しみじみとしたものを感じるわけ。

 

前から思っていたんだけれどもね、あの銭湯の夜間の客は、美男美女のカップルと巨乳しかいねーのか。

「すっぴんでも美人」と「脱いでもすごいんです」しか本来入会を許されない、そういった秘密協定でも結ばれていて、化粧を落としたら地面みたいな顔の銭湯愛好家(私)とかはなんらかのセキュリティーによって機密に監視されたりしているのではないか。

だったら早く言ってくれ。それでも私は行くけど。(心の強さ)

 

私の職場内でのヒエラルキーはお世辞にも高いとは言えず、ミスをするたびに自分を責めまくって灰になりそうなことが多々あったけれど、

最近は心の守り方が板についてきたので、ひとしきり凹んだあとは、

「たとえみんなから無能の落胤を押されても私だけは私の味方だもんね」と、おおいに開き直ることができるようになってきた。

それでも時々、「自分を責めない」がレールを外れて「自分を責める気持ちを押し殺す」になってしまうことがある。

そんな帰り道は満員電車で席が空いていないと無性にイライラして、「目の前のお前今すぐ降りろ、そして俺を座らせろ」とか、黒いことを思ってしまうんですけど。(そしてサイゼに凸撃してワインを一本開ける)

まあ疲れているし、直接相手にそれをぶつけるわけでもないからまぁ仕方ないわね、いやいや、だって疲れてるもんね、疲れたらみんなそうだよねーなんて思っていた。

 

でもね昨日気づいたことがあって。

っていうのも、「みちよのスピリチュアルカウンセラー養成講座」を1日受講した私は非常に疲れていた。

あれは学校の授業より、なんなら仕事より疲れるのだ。なんていうか回転させる領域が勉強とも仕事とも違うから、稽古前の力士みたいにたらふく食べてエネルギーを蓄えて挑むんだけど、それでも終わったあとは決まって出涸らしになっている。

そんな状態で新宿駅から電車に乗ったが土曜の夜、当たり前に満席なわけです。

座れるわけもなく、つり革にぶら下がるようにしてぐったりと立っていた。目の前には若いカップルが座っていて、キャッキャといちゃついている。

しかしその時の私は不思議とムカつかなかったのだ。

落ち込むことのあった仕事の帰りだったら、脳内で東京湾に沈めていたかもしれないそのカップルを、「お、いいすね!」みたいな視線で見ている私がいて、それではっとした。

 

私が人へ理不尽な悪意を向けてしまうときは、単に疲れているときじゃないな。と。

 

それで、「満員電車で目の前に座っている奴にムカつく」をはじめ、心の狭さが極大化するシチュエーションを再度じぶんの中で検証してみたところ、なんてこったいほとんど仕事で削られた時やんけ。

 

楽しい時、満足した気分の時、わくわくしてる時、もっと普通に穏やかな気分のとき、総じて「私が私をフラットに祝福している時」は、そういうガサついた気分にはならない。そりゃあ疲れていたら帰りの電車で座りたいとは思うけど、その欲求は座っている人への憎しみのような形では決して出てこないのだ。

そう考えると、「私に座らせろ!」は「奪われた私の場所を返せ!」であり、「私には居場所が無いのだ!」という悲痛な叫びだったのだ。

 

考えてみれば、世の中「私には居場所が無いのだ!」という人で溢れているね?

取りっぱぐれたエネルギーを回収しようとして、奪われた(と、自分で思っている)尊厳を取り返すほうに心の振り子が動いた結果が、他者への不寛容さとして現れているのだとしたら。

やっぱり人間は本質的に「自分ファースト」でゆくしかないのだなと、つくづく思う。

それは傲慢の限りを尽くせという意味ではなくて、他人が褒めてくれるのを待つまでもなく、自分の心の居場所を、自分でちゃんと作ってあげるということ。

これは面白い仕掛けになっていて、

自分ファーストを積み上げてゆくと、

無理のない範囲で「他人ファースト」が出来るようになってくる。

ぐらぐらしない自分がいることで、安心して他人を優先できるというか。

「無い袖は振れない」

というお金に関することわざは、じつに的を得ていると思う。お金もエネルギーですからね。

お金と同じくして、「ここに無い愛」は分け与えることもできない。その愛というのは、自分から自分に対する愛ということだ。

 

そして私が時々「自分を責める気持ちを押し殺してしまう」ように、無い愛を、あるふりをすると余計に苦しくなる。

自分を責めないに越したことはないけど、

愛はあるに越したことはないけど、

自分を責めてしまう時はそれを認めたほうが楽だし、

自分への愛がみつからないなら、「見つからないんだ!」と認めてしまったほうが、

結果的に早く見つかるようになるのではないでしょうかね。

 

ちょっといっぱい書きすぎたけどきょうは。

 

ベリーダンスの稽古の帰り、ふと「なんで私はベリーをやっているんだろう、辞めたろかしら、もう」 

と、ふと地獄を覗くような気分になった話についてはまた書くことにするね。