ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

私がスピリチュアルカウンセラーになる理由

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 (いよいよこれについて話さなきゃならない日が来たか……)

 

 

春で、通勤途中だった。

どん底の気分からは脱したとは言え、私はまだ人生の袋小路から完全には抜けられていない手探りの最中で、中央線快速に揺られながら憂鬱な気分でいた。

神田川沿いの桜が満開だった。

桜はいつも、私をナーバスにする。私は桜が儚い花だなんて思えたことが一度もなくて、何十年も同じ季節に同じ姿で咲き誇る様には恐ろしいほどの凄みと情念を感じる。桜を見ると、いつもそのパワーに飲み込まれそうになる。

たまに見て圧倒されたいけど、家に飾ってあったら疲れそうな岡本太郎の絵画みたいな感じだ。

その桜並木沿を走る電車の中で、私は怒りに駆られ(この時期、いつも怒っていた。つまり、悲しんでいたということでもある)心の中である人物のことをクソミソに罵っていた。相手の欠点を事細かに並べ立て、言葉の限りを尽くした激しい罵詈雑言を脳内で放つだけ放ったらすこしすっきりして、私はわずかにマシな気分になった。

「ざまぁみさらせ、お前はもう死んでいる」

秘孔を突き、敵を闇に葬ったような暗い勝利感に浸っていたところ、とつぜんある閃きが降りてきた。

「その力を愛に使え」

「!!!」と思わず気が動転してしまうくらいの強い閃きだった。

実際に誰かの声で聞こえたわけではなくて、それは自分の中に突然やってきた直感だったと思う。

 

翌日も神田川の桜並木でその言葉を思い出した。

直感というのは一瞬で、言葉にするとごく短く、光の速さで降りてくる。でもそれ自体は宇宙だ。すべての真理が欠けることなく詰められている。

だから前の日にその直感の声を聞いたときから、それが何を意味するのか私にはわかっていた。

 私が今までに経験したあらゆること、私を一度は孤独の城に幽閉するに至った、ズレた隙間から物事を捉えるような感性のありよう、真理を知りたいと思う気持ちの強さ、そしてこれも自分の弱点だと長らく思っていた、感覚の敏感さ。言葉を道具にするということ。

 

20代前半のとき、1年だけ心理カウンセラーの学校に通った。求めているものがここにある気がしたのに、「何かが違う」と思ってやめてしまった。

その「何か」が、みちよさんのスピリチュアルにあるように思ったのと同時に、あれからの10年ちょっとで人間としての経験値を蓄え、オリジナルの辞書を分厚くする必要が私にはあったのだと、その時にやっと思えた。タイミングじゃなかったのだ、あの時は。

 

何より強い動機は、私を果てしのない迷路から救い出す答えが「愛」だったということ。

見渡せば、少し前の私のように、自分のなかの愛を見つけられないで、心を閉ざして彷徨って、そして躓いているひとがたくさんいる。そういう人たちの伴走者になりたいと思った。

だから、「スピリチュアルカウンセラーになりたい」の内実は、「自分愛」への目覚めを方シェアして、お手伝いする活動家になりたい。

スピリチュアルカウンセラーという肩書を自分が名乗ることに関しては、まだしっくりこない部分がある)

それぞれに違った絡まりを見つけ出し、紐解くヒントを考えて、みんなで、できれば世界中で元気になってゆきたい。

だからきっと出発点は「自分を救いたい」だったけれど、かなり元気溌剌の今となっては、「俺と一緒に走ろうぜ!」ってかんじ。ただの躁でないことを願うけどねまじで(ほんとにな)

 

「お前はもう死んでいる」から、「あなたは生きる価値がある」に。闇に取り付く「呪いの言葉」を、光を探し出す「愛の言葉」に。

要するに、自分の中に元々あるエネルギーの使い道のスイッチを、ポジティブなものに変えた形のひとつが、「スピリチュアルカウンセラー」だという気がした。

 

もしかするとこの道は正解じゃなくて、結果違うものとして結実するかもしれないけれど、それはそれでいいと思っている。

すべては、薔薇が薔薇として咲くように、なるようになっている。

本当のところ、こういう答えは意志を超えたところにあるから。