ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

愛は祈り(波動は汚れないって話)

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このところどうにも調子がわるくて、エネルギーが停滞ぎみ。

書きたいことや、読みたい本はたくさんあっても、うまく集中できなくて、すぐに放り出してしまう。そうして、ブログの下書きとしおりを挟んだ本ばかりが溜まっていった。

部屋も散らかってるし。

軸はずれるし。

眠いのに寝れないし。

無駄に焦るし。

 

という記事さえ下書きにブチ込んだまま養成講座へ行き、うかうかと週末を終える。

「ありたい状態を意図してカウンセリングに臨む」というのが、目の覚めるような教示として心に染み渡った。

「〇〇しなければ」ではなくて、「〇〇でいよう」とか「〇〇でありますように」とか。

これは、責任感のような強靭さではなくて軽やかな願いなんだけれども、ひとつの曇りもない本心っていうのは、自分を助けてくれる芯になると思った。

 

スピリチュアルのブログなどを見てると、やはり「〇〇をすると波動が汚れる」とか「アセンションできない人の末路」みたいなことがしょっちゅう書いてあり相変わらずモヤる。

しかもそういう方ほど「正統派スピリチュアルカウンセラー」という肩書きだったりしてね。

 

スピリチュアルって結局いまでも狭くて特殊な世界の「趣味」だって多くの人に思われてる。

その狭い世界で、狭い世界の教義に当てはめて何かをdisったり、取り込んだり、崇拝したり、崇拝されたがったりしているうちに、閉じた円環はさらにどんどん閉じていってただのカルトになってしまわないのかな。

「あなたそんなことしてると波動が汚れますよ」と、お客さんに言うカウンセラーの人は、どんな気持ちで悩んだり傷ついたりしてる相手と対面してるんだろう。

白黒両方ある人間を、真っ白に漂白してしまおうとするのは、それ自体が黒の性質を孕んでいる。

ていうか波動が汚れるって意味がわからないけどね正直。いや汚れないと思うけどね。

落ち込んだり、逃げたり、欲に負けたり、何かに執着したりする、そういう人間のさまざまな状態に「汚い」っていう暴力的なジャッジを与えるスピリチュアリストにはほんとにちょっと共感できない。(言ってしまった!!!)

波動が汚れないように必死で清く正しい生き方に努めても、反対に俗の限りを尽くしても、あなたは汚れたりしない。弱くても狡くても、汚れたりしない。

決して汚れたりしないってわかっても、それでもある種の人たちは清貧を貫くのかな?

「やってらんねーわ、好きなもん食べて好きに生きよ」ってならないかな?

そうなってこそ、だと思うんですよね私は。