木が教えてくれる完璧なエネルギー
こないだ修善寺に行ったんだけども、修禅寺に向かう途中で立ち寄った日枝神社というのがとても良かったです。
※修善寺は地名、修禅寺はそこにあるお寺の名前で、漢字が違う。ややこしー!
日枝神社には、私の好きな大木がある。
これは2本の杉なんだけど木の根本が繋がっているんです。だから、子宝と縁結びのご利益があるんだって。
しょうじき、ご利益的なものはあんまり気にしてないんだけど、ただ木から溢れるエネルギーが素晴らしすぎてうっとりした。
でね、何でエネルギーが素晴らしいかというと、「あるがまま」だからだよね。それに尽きると思った。
あるがままの生命のパワーを歪めずに大放出しているから。そういうのに触れると、人間は心が震えるようにできているのではないか。
てことは、どの人間も本来は完璧なエネルギーを放ってこの世に生まれるはずですよね。
エネルギーが萎むのは、魂が曇るからで、そこはイコールだと思う。
でもこれってゲームだから、曇ったところからスタートするようにできていて、だから曇ることそのものが悪いことではないのだ。
ていうか、その「曇り」すら完璧な秩序の中に組み込まれていたりして。
そして魂は曇るけれど傷つきはしないので、曇りを払えばまたちゃんと輝く。(というか、ほんとはずっと輝いている。輝きが見えなくなるだけで)
じゃあ曇りとは何かというと、これがいわゆる「怖れ」と呼ばれるものですね。罪悪感、無価値感、無力感、とか、総合的に自己否定は怖れです。
怖れ=サバイバル本能でもあるので、それは生まれた時、世界が「私」と「あなた」に分離した時に生まれるんだけど、分離しているからこそ、愛に気づいた時に至福を感じるようにできているのですね。
そして人は、「愛」を求めるがゆえに「怖れ」を持つとも言える。
ディスカバリーチャンネルか何かで、マッチョな元軍人がナイフ一本持って森に放置されて自力で帰還できるか試すゲームを昔やってた。
完全に頭のおかしい変態企画で、生きた魚に齧り付いたり、ラクダの死骸の胃袋に溜まった水を飲みながら生き延びる彼を観て、変態だ変態だと言いながら面白がっていたんだけど、きほん、全人類が同じことをやっている。
わざわざ愛からとおく離れ、面倒くさくて困難なゲームをやる変態が人間というものです。でも、魂はそれすら楽しんでいる!
木が「あるがまま」なのは、分離感を持たないからだね。
自己否定がないから、「隣の木よりデカくなりたい」とかも無い。「デカくなりすぎたら森の神様に嫌われる」も無い。あと、「がんばって成長しなくては」も無いし、「常にたっぷり葉を茂らせなければ幸福な木になれない」も無いよね。
その代わり、「めちゃくちゃ嬉しい!」とか「死ぬほど幸せ」とかも無いんだろうね。
というわけで、木と比べると、自分がどれだけのエゴをいまでも山盛りに持っているのか知るのでした。
だけど人間は木じゃなくて感情を持った生命体だから、傷つけられたら痛いように、心も苦しくなる。欠乏感もある。
魂の曇り(=怖れ)をすこしずつ外して、苦しみの量を減らしてバランスするのがよいと思う。
「ひとつも苦しくない」を目指すのはちょっと無理があるというか、
苦しみゼロを目指す人ほど苦しんでしまうものだから。苦しみゼロを目指して、思考でなんとかしようとして、心を殺した結果、喜びもわからなくなり、抑圧された苦しみもけっきょくはデカくなってる、みたいな。
あと、「ひとつも苦しみたくない」というのは、「今がめちゃくちゃ苦しい」の裏返しだよね。
それゆえに、ひとつも苦しみたくない、スピリチュアルによって全部挽回したいという気持ちはとってもよくわかるけど。
そんな時は、焦って色々やるよりも、まず心の力も体の力もぜんぶ抜く!
あと、絵に描いた餅みたいな理想像を捨てること。人間なんて、みんな似たり寄ったりなんだからさー。
あなたが頭で思い描く、スーパー理想的で完璧な状態と、自分で軽蔑している現実のあなたとが、本質的なところでは何も変わらないんだとしたら。
たとえば自分がどんなに今どん底だと「思っている」としても、すべては完全な秩序の中にいるということを思い出してくださいね。
そんなことを自然に触れておもったのでした。
美しい伊豆(淡島、柿田川公園)
(みてー!この神秘的な湧き水)
2泊3日で、大好きな伊豆に行ってきました。
今回は、行ったことの無い場所に行こうということで、修善寺〜淡島(沼津)の旅。
淡島という無人島は、じつは1ヶ月前くらいに存在を知ったばかりのマイナースポットなんだけど、これがとても良い場所でお気に入りになりました。
歩いて一周回ると丁度良い散歩になるくらいの小さな島で、リゾートホテルと手作りの水族館、そして小さな神社と戦争遺構がある。
三島駅からバスで30分。
この船で島に渡ります。
海の透明度が高くて綺麗でした。
鮮やかなブルーの熱帯魚のような小魚がたくさんいる。大きな魚も、見える場所を泳いでいる。
島をぐるりと一周する遊歩道があります。
西日を浴びる
小山を越え
そしてサンセット
このホテルに泊まりました。
お部屋も料理も素敵だった。gotoトラベル様々。
真夜中、目が覚めて部屋のベランダに出る。
水面にうつる月光は美しくて、はりつめていて、怖いくらいだった。
月のエネルギーってすごい。他の何とも似てない。そして右上に何か映ってる?
写真は撮ってないんだけど、温泉もすばらしかったんです。
大浴場の外に露天風呂があって、目の前が海。
そしてその向こうに富士山というファビュラスなロケーション。
でね、夜だと景色が見えないから朝風呂を浴びに行ったんですよ。
そしたら、露天風呂の前におじさん達を乗せた釣り船がいっぱいいるのね。笑
ほとんどの船は、露天風呂の前を絶妙に避けて(恐らく配慮)離れたところで釣りをしているんだけど、
一隻、女湯の真前に!張り付いて離れない船がいた。
お爺さんが1人乗ってて、明らかにこっちを向いてて、声かけたら届きそうな距離にいるわけ。
ということは、普通に露天風呂に行ったら、ストリップ劇場ですよね。なんでや!金払え!(そこか)
しかも、どう見ても釣れてないのに、「ここがベスポジ」とばかりに動かないの(笑)まあある意味ベスポジなんだろうよ(笑)
私も意地になって、ぜっったい露天風呂に入ってやる!と、大浴場で茹で蛸になりながら機会を窺うこと数分。
ついに(2つの意味で)諦めたのか、ちょっと遠くに離れた隙にささっと入りに行ったけど、いつ帰ってくるかわからない、もし露天風呂に入っているタイミングで船が帰ってきたら、茹って死ぬor覚悟を決めてストリップという究極の2択を突きつけられていたもんだから、まったくリラックスできなかった。
しかし臨戦態勢でも景色は素晴らしかった。
そして島を離れる。さよならー!
次に行ったのは、三島にある柿田川公園。
ここは屈指の湧水地で、公園のいたるところに沢や井戸がある。冒頭の青い井戸も公園のなかにあるの。
他にも、モネの庭のような沢があり
湿地があり
東南アジアのような木が茂る。
ねこもいた
なんか漁師VSスピリチュアル主婦の裸をめぐる攻防ばっかり書いちゃったけど、、
伊豆半島はいつ行ってもエネルギーが素晴らしい。生態系もどこか南国っぽく、ダイナミックで力強いのね。
水族館に書いてあったのだけれど、元々は日本列島にはなくて、南の方の海底が噴火しながら隆起して、島になり、やがて日本にドッキングしたらしい。だからパワフルなのかな?
東京に戻ったら、わかりやすく体が火山系のエネルギーを欲している。「水」に寄ったから、バランスを取ろうとしてるのね。
ま、火山系のエネルギーが欲しい=箱根行きたい、ですわ。
☆11月の予定日アップしました☆
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土地の波動について②
(静かな朝の江ノ島)
ららぽーとがパワースポットって知ってました?
私はそれを知ったとき、「うわーーーー!!!」となりました。じつは密かに、ららぽーとは波動が高いと15年くらい思っていたからです。
というわけで、今日は大好きな(きっとみんなも好きな)土地の波動の話。
第一弾はこちら↓↓
波動が高い、低い、という言い方をよくしますけど、人間の発するエネルギーが高低の一言では言い表せないように、土地の波動(オーラ?エネルギー?)にも豊かな特色があります。
だから、当然、個人との相性というのがある。
たとえば、これはスピリチュアル会話あるあるなんだけど、スピ属性のひとたちは基本的にエネルギーに敏感なので繁華街が苦手な人が多いです。
よく聞くのが、「新宿は気持ち悪くなる」とか。
しかし、私は新宿が好き。
あの街が「気持ち悪くなる」と言われる所以もめっちゃわかるんですよ。新宿駅に降り立った途端、新宿のエネルギーにチューニングしなくてはならないでしょ。だから、ゆるゆるした気分の日にはあんまり行きたくないとか、そういう癖の強さもある。でも、一旦波長を合わせてしまえば、相性が良いとしかいいようがないしっくり感があるのです。
だから、あえて選ばなくても、何かと新宿に行く用事ができるし、気付いたら早朝からすべての用事が新宿である、なんてことも。
人の多さに疲れはするけど、それってエネルギー的に相性が悪い時の気持ち悪さとは別の感覚。
東京の繁華街で言うと、渋谷もけっこう好きなのね。
新宿同様、お世辞にも治安の良い街とは言えないけれど、ぜんぜん嫌な感じがしない。透明というか、停滞感がなくてサッパリしてる。渋谷から青山にかけては流れが良くて気持ちの良い場所だと思う。あと、表参道も。これって明治神宮の影響かな?
そして苦手なのが池袋と六本木。この辺は以前も書いたから今回は割愛。
でね、パワースポットにも相性診断みたいなのがあると最近知ったのですよ。
誕生日と血液型で割り出す「繭気属性(けんきぞくせい)」というものらしいんだけど、基本、こういう誕生日とか血液型とかで診断するものを私はほとんど信用していなくてね。しかし、パワースポット相性診断に興味を持ったのは、私が常々土地にもキャラと相性があることを感じていたからですね。(なので、診断しなくても、「行けばわかる」って話なんだけど)
例えば私は「風」の属性らしいんだけれど、相性が良いのは「風」「水」「地」の属性の場所。
相性がよくないのは、「火」「空」の場所なんだって。(算出方法はネットにたくさん載ってます!)
場所のリストを見ると、やはり相性の良いとされるパワースポットには、お気に入りの場所が多かった。嫌いじゃないけど気持ちがザラっとした深川不動尊はやっぱり火。とかね。ちょっと楽しいこういうのは。
べつに、相性のよくない場所に行ったからって何か不幸があるわけじゃないですよ。あくまで遊びですよ。自分で感じ取るのがいちばん面白いからやっぱり。
ちなみに、新宿って「水」の属性な気がする。そんな気がするだけだけど。
夏の終わりに、江ノ島に行ったんです。
湘南スタイルのパリピでごった返していて、海も泥水だしすっごい暑いし疲れたんだけどね。
江ノ島の旅館に泊まって、早朝の町を散策したら、とっても土地のエネルギーのクリアなところだった。
調べてみると、元々修行の場として栄えたスピリチュアルな場所のよう。
それ知ってたらもっとそういう視点でウオッチしてたのになー!ビールとイカ焼きのことしか考えてなかったからね。神社も行ってないし。
というわけで、もうすこし静かなシーズンにリベンジしたい江ノ島だわ。
そして週明けは伊豆旅行!
⭐︎スピリチュアルカウンセラー養成講座の認定試験が来月に延期されたので、無料モニター期間も延期しました。是非是非是非是非!!
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薄氷を歩く(エゴは苦しい)
私の身近な人で、たえず悪口、不平不満を垂れ流してる人がいてね。(あなたの周りにもいるかもしれません)
極端な話、他人の一挙手一投足に敏感に反応しては、いちいち陰で文句を言っているわけです。(私も散々言われているであろう←これも思い込み)
それは私が不満だらけだから似た人を引き寄せているのです!なんてぇことが今日は言いたいわけではなく、
エゴに囚われていると、世界がとても不安で危険に満ちたものになる、ということです。
その文句を近くで聞いている私としては、
「ちっ、またかようっせーな」と思うんだけど(こらこら口が悪いぞ)
同時に彼女が、共感力が高く、繊細で責任感も強いことを知っている。
でね、その共感力、責任感というのは、ネガティヴな側面として(往々にして過剰になったときに)、自分を見失うこと、被害者意識に繋がりやすいです。
自分を抑えて、人に合わせて、人の期待に応えて、それを当然のことのようにこなしていると、
「いつも私は奪われている」という漠然とした不満を溜めてゆきます。
そして人は、それを外側に投影します。
つまり、「あいつのせいで私は不自由を強いられている」となるわけです。
抑圧が大きければ大きいほど当然ストレスも溜まりますから、
外へ向ける敵意も大きくなります。
ちなみに、この「我慢」がそもそもどこから来ているかを辿ると、
だいたい親との関係で作られた、自分に対するセルフイメージ、それから価値観が関係しています。
私は認められていない、私は理解されていない、私は劣った人間だ、私は能力が低い、私は魅力がない、私は愛されない。。だから私は正しくあるべきだし、謙虚であるべきだし、人から好かれるべきだし、有能であるべきだし、友達は多い方がいいし、人の役に立つべきだし、我慢強くあるべきで、責任を全うするべきだ、、……etc。
さらに、そのセルフイメージや価値観(=エゴ)を通して世界を見ますよね。
そうすると、周囲は、自分よりも理解されてて、認められてて、愛されてて、何不自由なく暮らしてて、そして傲慢で無責任で我慢が効かない、ろくでもない奴ばっかりになる。
こんな世界は地獄だろ。
憂鬱すぎて生きるのが嫌になるし、たえず文句を言ってないと心が持たないのもわかりますよね。
ぶっちゃけ、芸能人のスキャンダルを叩く心理とかも、この抑圧からの投影によるものです。
だって、自分が直接被害を被ったわけでもないのに、親の仇のごとく吊し上げるのって辻褄が合わないと思いません?
つまり、この危険な世界を作り出しているのは、ぜーんぶ自分のエゴちゃんということです。
エゴは、エゴだと気付いてあげることで暴走の勢いが弱まります。
無理に抑え込もうとするとさらに暴走して心が死にますので、マタドールのようにかわすのが大切。
「ああ、私は自分のことをバカで鈍感で魅力がなくて誰からも愛されない年増だと思っているんだなぁ」「誰かの役に立って、空気を読んで、綺麗でいて何でもソツなくこなすべきだと思っているんだなぁ」(←両方私が実際に思っていた)
そう認識する、そして真に受けずに流す。(だってただの思い込みだからね!)
もっと言うと、ネガティヴエゴちゃんが形成される過程には、過去の傷が影響しているので、そのときの感情を解放してあげるとさらに良いです。
わかってほしかった!愛されたかった!認めてほしかった!とかね。
他人がムカついて仕方ない、という人は、どんなセルフイメージや価値観を抱いているか、
それを通してどのように世界を見ているか、観察してみることをおすすめしますよ♪
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空腹で良い買い物はできない。恋愛もね。
今読んでる本に書いてあったことば。
「空腹で良い買い物はできない」
その本のタイトルはまさに、「愛しすぎる女たち」
自分を愛せない人に人は愛せない、と言いますね。
それをどうやってわかりやすく例えるか、ということを、すこし前から考えていました。
まさにこれね。
飢え死にしそうなくらい腹ペコでスーパーに行ったとしましょう。
そしたらまず、まっさきに手に取るのは、砂糖たっぷりのドーナッツとか、油塗れのジャンクフードとか、手っ取り早くエネルギーチャージできそうな食べ物ではないかな。
わかりやすい刺激(快楽)はあるけれど、冷静に考えればたいして美味しくもないし、自分を健康にしてくれるわけではないもの。
そして、満たされた状態で買い物に行けば、スルーできるようなもの。
間違っても、飢えた人間が最初にカゴに放り込むのは、旬の有機野菜とかではないはずです。
恋愛においても、同じことが起こります。
内側の愛情が枯渇していると、それを満たしてくれそうな相手や関係性を血眼で探します。
というか、「自分の心の穴を満たしてくれるか」というところにしか目がいきません。人を愛する余裕なんてないし、愛されているかどうかは1日28時間くらい考えるけど、自分が相手を愛しているかどうかなんて1秒も考えないし、なんなら、相手のことを人間としてすら見ていません。(私もそうだったぞー!)
そんな飢餓感でガッついても、幸福な関係を築き難いのは周知のとおりでしょう。
しかも、そんな時に選ぶ相手は、なかなか難しい相手ばかり。既婚者だったり、めちゃくちゃモテる人だったり、反対に女性に興味がなさそうだったり、性格に問題があったり。
得てして、誠実な人より、セクシーな人。
あえて困難な関係や相手を選ぶのには理由があります。
なかなか愛をくれない相手は、なかなか愛をくれなかった親の代替えです。
困難だった親子関係を恋愛を通して追体験して、今度こそ愛を引き出すことで幼少期の愛されたかった自分を救おうとしているんですね。
誠実に安定して愛してくれる相手だと、親から欲しかった愛をもぎ取ったことにならないのです。そういう人たちにとって、恋愛とは、「愛情のゲームで勝って上がるためのチャレンジ」なので、勝つことに意味があるのです。
じゃあどうやって感覚を狂わせる空腹を満たしてやればいいかということなんですけど、要するにこれは「自分を受け入れる方法」なんだけど、
このテーマの記事は今度書くことにしてまだ着手していないのだった(なんやねん)
なかなか壮大なテーマよな。
この世のデフォルトとして、人は多かれ少なかれ欠乏感を抱えて生きています。
だから、「自分を愛する」って言っても、欠乏感をゼロにするのは無理なんじゃないかと思う。どんな人でも。欠乏感がニーズを生み、それが人間の原動力になっている側面は否めないからです。
そのなかで、欠乏の輪郭をぼんやりと曖昧にして、どれだけ自分との一体感、世界との一体感を感じてゆくことができるか。
スピリチュアルでよく言う「あなたはすでに愛されている」というのはつまりそういうことなんだと思うけど、そういった言葉だけを渡されて思考で思い込もうとするのは、「私は愛されていない」という本音を殴りつけて黙らせている状態なので苦しいよね。
だったら、「愛されていない!かなしい!」という感情を解放してあげた方がいいよね。
ということで、何はなくとも感情の解放はたいせつです。
とくに怒りと、その下にある悲しみ。これらを解放してあげるだけで、「愛されていない」という囚われからも逃れやすくなります。
森林浴で「わたし」を取り戻す
(最近、森林ネタが多い)
火曜、枡田さんの「自然の中で感覚を開く講座」のDay2で生田緑地へ。
1日目の記事↓↓
8月から、個人カウセリングを始めました。
いまは練習期間として無償でやってるんですけども、それがちょっと立て込んだりすると思考過多になります。
「自分の可能性とか「どう頑張れるか」をすごく真剣に見つめてきました。
ただまぁ、すっごい頭を使ってきています。「これとこれをどう結びつけるか」とか「もうちょっと洗練されたやり方はないのか」とか、ひとり自問自答とか、ひとり会議みたいな感じで、最近のあなたはすごい頭を使ってきている」
と書かれて、「くはーーーーなんで知ってるん!!!」とひっくり返るくらいには思考過多になってまして。(やっぱすごいしいたけ占い。セイナさんありがとうございます←私信)
ようするに、いろいろ先走って焦って自分軸が地滑り起こし気味だったんです。
しかし、自分軸が地滑り起こし気味なのも、そこからどうやって修正するかもなんとなく把握できるようにはなっているので、
うむ、ちょっと思考を止めよう。
というところで、ちょうどこの講座がセッティングされていました。
1に感覚2に感覚、3.4はなくて5に感覚。
という、ひたすら五感を使って森を感じる、ただそれだけの日。
散歩者のほとんど通らない森の遊歩道で、小鳥のさえずりと虫の声と木々のざわめきと、時折木の実や葉の落ちる音、あとは鬱蒼とした木々と、緑の豊かな香りに囲まれて、
自然の1日の移ろいをただ眺めているだけです。
日の傾きとともに、こんなに緑の表情が変わるなんて、
飛び交う虫の種類や鳥の鳴き声が変わるなんて知らずに生きてきました。
時計もスマホもほとんど見ずに、森の中のベンチに寝そべって、杉の枝の隙間からのぞく空を眺めたりしていたら(不審者)、
自分なんて実体のないもので、景色を映す鏡でしかないような、それでいて世界のすべてを内包した完全な存在であるような、
そんな不思議な安堵感に包まれました。
実質4時間くらい森の中にいて、下界に戻った時は里に出てきた熊の気分。
感情や執着に振り回されることが「私らしく生きる」ことじゃない。
むしろ、いろんな思い込みを手放して、こだわりなく過ごす中で、裸の自分と出会える気がします。
でもそれって、無欲になるとか、怒らないとか、喜びを感じなくなるということではない。ましてや、清く正しい善人になるということではまったくない。
「個を生きること」と「一体感を感じること」のバランスについていつも考えています。
感情や執着に振り回されることが「私らしく生きる」ことじゃないと書いたけれど、
同時にすべてがひとつ(=愛しかない)と悟りきってしまったら、人間が肉体と感情を持ってこの世に送り込まれた意味がないとも思うわけです。
というわけで、バキバキの分離感に支配されたこの三次元で、「悟って生きる」こと自体が、もしかすると分離の極地と紙一重なんじゃないか、分離感からのエスケープという意味で、排他的な「スピリチュアル」という教義をつくってしまったんだとしたら、それは新たな分離を生んだだけであって、残念なことですねと、思うんだけども、
なんなら、その残念感も含めて、人間が味わいに来ていることなのね。
ほろ苦いよね、世界は。
でも私たちは、それを体験しにきている。
依存することも、優越感を持つことも、憎むことも、妬むことも、体験しにきている。悟ったような気になることも多分。
それを「ワンネス」から離れてわざわざ体験しにきているということを忘れずにいれば、より広い視野と器を持っていろんなことを味わえるのではないかな。
自然の中にいて思ったことなんだけれど、
宇宙は人間の私利私慾のためにあるんじゃないのね。当たり前だけど。
だから、スピリチュアルで幸せにっていうのは、宇宙が自分の願望を実現するために働いてくれるみたいな、たとえばお金を恵んでくれたり素敵な彼を与えてくれたり嫁姑問題を解決してくれたりっていう現世利益的な狭い話じゃなくて、
宇宙の一員である人間も、その法則に従っていれば自然に無理なく軽やかに(=幸せに)生きられるで、という教えなんですよねきっと。
人生のテンションが不自然にブチ上がるみたいな、そんなドーピング的なものではなくてね。
そして、そのブチ上がらなさ、必然的で穏やかな日々をまるごと愛せることが、「ありのまま」ということかもしれません。
というわけで、すべてはバランスだなぁと思ったところで、自分が戻ってきました。
めでたし。
かわいいキノコが生えていたー!毒入りかな??
パラレルな世界から見る究極のやすらぎ
朝によく瞑想をするのですけど、先日行った来宮神社の神木から感じた波動があまりに完璧だったので、
あの安らぎを妄想の中で再現しながらやることが多いです。
涙がでるようなこの安心感をどんな言葉にすればいいのか、というのはけっこう難しい気がする。
まず、時間の概念が溶けているんだな。(すでにわからねーよ)
来宮神社の大楠は、樹齢が二千年と言われています。
それって、二千年分の過去が現在に同時に存在している感覚だった。
ということはつまり、これから先の未来、何百年か何千年かもここにある。
歴史が変わって人が何回も生まれ変わってっていう壮大な時間のうねりが、過去→現在→未来というまっすぐな線の上に存在すると同時に、いまこの瞬間にもすべてある。
その壮大な枠の中にいる「私」というのは、もう1人だけではないわけです。たくさんの「わたし」がいます
いまの「私」が囚われている、不安だとか恐れだとか、あるいは、喜びや愛のようなものも、大きな大河の一滴であり、その大河というのは、それこそすべてです。
いま生きているものも、有機物も無機物も、いま生きていないものも、これから生まれてくるものも。
そういう感覚の中で、「私」という概念が消失してしてゆく開放感。
そして「『私』が消失してもなにひとつ損なわれるものはない」という究極の安心感なんじゃないだろうか。あの安らぎの正体というのは。
でね、これがよく言う「ありのまま」の原型になっている気がするんです。
「ありのままのわたしでいい」=「「私」というエゴを失ってもわたしは脅かされない」ということ。
さらに平たくいうと、
私はこういう人であるべきだ、とか、こういう人になってはならない、というエゴをすてても、わたしの居場所はなくならない。だから力を抜いて、のびのびと生きてゆけばいいという感覚。
……で、それが容易くクリアできない、ややこしい事の起こりまくる、波動の重ーい地球遊園地に、われわれはあえて選んで来ているわけです。「肉体と感情」というハンデを持ってね。
なんなら、「すべてを悟った感覚」すら罠だったりするぞ。面白いですね。
なので、「究極のやすらぎ」に抱かれる感覚を知りながら、「わたし」を楽しむのが地球上での最強の過ごし方かもしれないと思うわけです。
スピリチュアルカウンセリングというのは、「私」から「わたし」への足掛かりをお手伝いすることかもしれないなぁ。