ユーフォリアの猫たち

水峰愛のスピンオフ

「嫉妬」という名の「愛されたい」アラート

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自分のブログを読み返していて、「重いな」と、ふと思った。

 

言葉が多すぎっていうか、力みすぎっていうか、文圧?霊圧?

しかしどれだけ取り繕っても、文章というのはやはりめちゃくちゃ自分が出ますよね。私は自分の客観性のなさが文章に本当によく現れていると思ってときどき恥ずかしくなります。

そして当時と考えが変わっていることもあるけど、それを損なわない範囲でちょっと書き直したり手入れをしたりした。まあ完全な自己満足だけども。

 

 

****

 

 

新しい恋人ができたというネット上の「彼女」の幸せを全然祝福できなかった。

スマホを握り締めながら、顔も知らないその人のことを思い、心の奥の方をニラニラと暗い瘴気で満たしていた。

女子として必要とされていることに嫉妬したのか、それに至る健気な努力を妬んだのか、とにかく心が穏やかでない。

 

でも仕方ない、そんな私も仕方ない。私も愛されたかったんだから仕方ない。

 

だからあなたも幸せになってね。

彼女の幸せを祝福できないと思いながら、幸せになってなってねっていうのは変だけれど、私がどんな私も受け入れて愛する気持ちになると、彼女への愛もぽろりと胸の真ん中に落ちてきた。

 

「自分愛」と「他人愛」のメカニズムを見た気がした。

 

誰かに心がザワザワするとき、妬ましいとき、僻んでしまうとき、それって突き詰めれば「私だって愛されたいのに!!」という心の叫びなんじゃないかと思っていて。

嫉妬って、自分と誰かを比較して、愛され要素(とか、承認される要素)をより持っていそうな相手を憎く思う気持ちじゃない?

 

そんな時は、自分の嫉妬心を否定して、なおかつ見たくない感情を抱かせる相手のことも否定する、という行動に行きがちだけども(芸能人のインスタに悪口書き込むみたいに)

「私だって愛されたいのに!!!」と認めたほうが圧倒的に楽なのだ。

「愛されたい」を否定するから苦しいんだと思う。

人間なら誰だって愛されたいんだから、恥じなくていいし自己卑下しなくていい。

愛されたいと思うことは甘えなんかじゃない。老いも若きも男も女も関係ない。食欲と一緒。

 

最近の私は、こんな風に心がザラっとしたら、「愛されたいアラート発令中だな!」と思うようにしている。「今日も元気で結構なことだ!愛してるで!」くらいの勢いで思っている。なんなら、頭上でパトカーのランプがビービー鳴りながら回っている想像までする。

そうすると、嫉妬の対象が憎しみの対象でなくなるから不思議。それどころか、「どうもありがとうございました!」みたいな気持ちになりますから皆さん試してみてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

弱者の椅子に座るということ。

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ダイエット中で低カロリーとか低糖質のアイスを最近よく食べるんだけども、ふと気になってパッケージ裏の原材料一覧を見たら、「豆乳」しか意味のわかる食材がなかった。

他は、化学薬品みたいな聞き慣れない単語がずらり。謎肉ならぬ謎アイスやん。これは頻繁に食べるのは良くないかもと思い、原材料の一部をネットで検索してみたところ、やっぱりと言うべきか危険食品撲滅ブログで親の仇のごとく叩かれている。

(でも、一昔前に比べてこういうブログも減った気がする。化粧品の毒性解析とかも。あれは何だったのか)

 

アレルギーがあるわけでもないのに、こういったものを蛇蝎のごとく嫌っていて、添加物食べますか、人間やめますかくらいの勢いの、なんなら一口でも食ったら寿命縮みますみたいな考えの人もこの世にはいますね!!!

あくまで思想は人それぞれなんだけども、大丈夫、君はそんなに弱くないから大丈夫、って言ったら怒られるかな。

 

一説によると、ていうかだれが考えてもそうかもしれないけど、おばあちゃんに聞いても意味のわかる食材を食べるのが栄養学的には理想らしい。

まぁそれはたしかにその通りなんだろう。

そして、生きてく上で何を食べて何を食べないかっていう選択は思想の自由とも重なるから他人がとやかく言う事でもなく、あと体質的な理由や好き嫌いは必ずあるから「なんでも食え」なんて言うつもりはない。

だけど、「○○はだめ!」ってどっかの情報に振り回されて極端に排除するというのは、自分の、そして人間の、生命としての強さを信じてないようにも思える。

 

コロナ案件でも、健やかな心身を保つためによく寝るとか、手洗いうがいをするとか、そういう基礎的なことに飽き足らず、ヒステリックなまでに行動を制限するような在り方っていうのは、「私は無力なため、すぐ菌に負けます」っていうところで自己不信があるのかも。で、自己不信と恐怖ってセットな気がする。

自分は弱い、無力だ、価値がない、不自由だ、損をしてる、奪われてる、これ以上損したくない、奪われたくない、奪われるのが怖い、なぜなら自分は弱い、無力だ、、、以降エンドレスループ。みたいな。でこのブラックホールには、「ただでさえ無力な私」「ただでさえ奪われて出涸らしの私」からさらに奪いそうな存在、自分を脅かしそうな存在への敵意とか牽制意識も生まれてきて、「ほんとに怖いのは人間」と言われる所以の、巨大でヘビーな二次災害を生んでる気がする。

 

人間だれしも、他者に脅威を感じるものです。

自分から奪いそうな他人、傷つけそうな他人というのが怖い。それはだれだってそう。

でも、自分が強い無力感を持っていると、「どこまでを安全とするか」の許容量がすり減ってしまうんじゃないかな。

すごく平たく言えば、無力感と「怖いもの」の数は比例するのかもしれない。

まあ「怖がり」って他にも要素はあると思うけど、無力感も一部な気がする。

 

 

長くなるんだけども「無力感」について考えるきっかけとなったのは別の出来事もあった。

ちょっと前にニュースサイトで、どっかの神社の木の枝が公道にはみ出して交通の妨げになり危険だから切ろうとしたら、木を管理してる女性が「御神木が枯れたらどうしてくれるのか」と、たいそう反発をしたという、三面記事的な話を読んだから。

神木と呼ばれるようなエネルギーの強い木なら、枝葉を切ったくらいで枯れないだろと思うんだけど、「枯れてしまう!」と思うのもまた木を崇めつつほんとのところ木の力を信じていないのだと思った。でそれは、その人が自分の力を信じられないことの投影なんだろうと思った。同時に「弱い木」を守ることで自分の価値を証明するために、木は永久に弱くなくてはならず、しかし自分が無力であることに甘んじ続けるためにも、木は「神」でなくてはならない。

 

言ってることがわかんねーよって声が聞こえてきそうなんですけど。そして私も言ってることがわかんなくなってきたからこの辺が私の限界です。

 

みんなみんなに力があるよ。これは本当です。

でも、力がないことで向き合わなくて済むことがあるから時に人は無力でいたい。弱者の椅子に座っていたい。

それが良い悪いって話ではないんだけど、自分の力を認めることができたら、それは弱者の椅子にどかっと居座り続けるより自由なことではある。

自分の力は、「証明する」必要なんて全然なくて、病気があるとか健康とかは関係なく自分の人生を全うするだけの力があるということに気づけばいい。人に対しても。

そして愛っていうのはそういうことかもしれないと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スピリチュアルカウンセラー養成講座ミディアムクラスまとめ ※修正版

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(もう講座の朝!!夏休みで言ったら8月31日終わって始業式の朝!!)

 

 

台風がきたり疫病が蔓延したりしてかれこれ1年がかりで通うことになったみちよさんのクラス。

ミディアムクラス(愛の講座)がもうすぐ終わるので、その感想と、自分自身の変化を振り返ります。

 

先週の講座の時、一緒に通っている仲間から「最初とだいぶ雰囲気が変わった、柔らかくなった」と言われた。これが人から見たいちばんわかりやすい変化なのかもしれないけれど、じつは似たようなことを、先週に限らず何度か言って頂いたことがある。

「外出自粛で太ったからでは……」とか、「時間なくてアイライン引いてないからじゃね?」とか一瞬思ってしまったんだけれども(すまん)たしかに心の持ち様は楽になっているし、クリアになっている。

 

ベーシックは自分の感情と向き合う講座で、言い換えれば愛を自分自身に向けることにフォーカスした。ミディアムクラスは、その「愛の対象」を自分から少し広げて他者へというところで、 人の心の動きとか、人のエネルギーを読むようなサイキックな要素も少し入ってきた。

 

みんなそうだったかもしれないけれど、ベーシックで自分と徹底的に向き合ったからと言って、全部が全部クリアになるわけではない。完全に自分が癒されるわけではないし、「恐れの意識」と言われるような、思い込みや思考の癖が完全に取れるわけではない。だから、ミディアムクラスでは、ベーシックで学んだ自分自身への癒しも継続してやっていくことになった。

多分、それは今後も続くものだと思う。

 

私は思考優先型の人間なので、好きでやっていることでもちょっとバランスを欠くと「○○をやらなくちゃ」「あの本読んでおかなくちゃ」とかなりがちで、それは「自分を癒さなくちゃ」「自分を愛さなくちゃ」という本質的なところへの矛盾に行き着く。「自分を癒さなくちゃ」「自分を愛さなくちゃ」の危ないところは、その向こうに、「自分を癒せば、自分を愛せば私は幸せになれる=癒されなくては、愛さなくては幸せになれない」という、今の自分への否定がうまれがちなこと。

そしてそれは、「目の前の人を癒さなくちゃ」「救わなくちゃ」という危うい義務感へも繋がってゆく。

つまりそれって愛じゃない。

 

だから、あの本読まないと、ブログ書かないと、講座の復習をしないと、○○しないと私はスピリチュアルになれない(?)みたいに思ってしまうのって、スピ的に極めてナンセンスなことなのだ。

 

日々の計画が、「やりたい!」を離れたただの義務にならないように、そして心の動きを観察するネタのひとつとして自分自身に対して注意深くなってはいた。

 

っていうのも、見えない領域だからこそ認識は様々で、簡単に(そして大幅に)歪められてしまうとも思ったから。

スピリチュアルと名のつくものを知れば知るほど割と三次元的に混沌としている(つまり世俗的で人間臭い)世界であることが感じられたので、たとえば愛の御旗を掲げて愛じゃないものを裁いたり、焦っている人をさらに焦らせたり、傷ついている人をさらに追い込んだり、何かの条件をつけて「○○しなければスピじゃない」みたいなエゴ由来の解釈に対しては注意深くありたい。

とにかくバランスよく行きたい。ネガティブを消し去ろうとしない。何者かになろうとしない。人間でいること。まぁ、人間離れしたくなる欲望って極めて人間的なものだけれど。

 

この講座での学びは、主に職場を実験台にしていた。

っていうか、実験するためだけに仕事をやめなかったくらいの勢いだからな。

好きでない人、たいしてやりたくない仕事、というものを通して、自分に対する愛をずっと実験していたような気がする。人にたいする愛も。不安はどこからくるのか、どうすればストレスを溜めない方法で解消するのか、他人を悪く思うときの自分の心の動き、その原因となるもの、AさんとBさんの仲違いの原因、それぞれのエゴが抱える傷について、そういうことを、1日仕事で感じたことを通して帰りの電車で考えるのが日課になっていた。

それは「愛だけ」の環境では手に入らなかったものだし、「愛だけ」の場所なんて地球上にほとんどない。

「もうあかん、やめます」状態(これ知ってる人いるのか)だった私が、それを逆手に取って自分のために使えるようになったことは変化だったと思う。

 

というわけで、ミディアムクラスを通して起こった変化は、より深く自分と向き合えるようになったことで、一時的な「癒された気分」「空元気」じゃなくて深い部分での癒しの難しさを知ったこと(頭で気づいても染み付いた思い込みを取るのは根気のいる作業です)、それでもかなり自分のエゴちゃんに気付けてクリアにはなったこと、なにより、何があっても「私」は私の真ん中にいて、外からの影響で損なわれたり傷つけられたりすることはない、ということを徹底して自己教育した成果がちょっとづつ現れて、ぶれにくくなったこと。

まだ自分ができはじめたばっかりという感じで、「愛の講座」の理想に到達するのはこれからかもしれないけれど、自分がシッカリ太くなれば「他人愛」も同時に起こる気がしている。

 

そして気づけば朝の5時半。

夜書こうと思ってたのに寝落ちして起きたら3時半だったからな。ちなみに寝落ちした原因は近所の定食屋で飲んだ「酔鯨」が旨かったからです。土佐の杜氏に興味がある。

 

 

おわり

 

 

 

サイン、メッセージ、虫の知らせ。

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(山の温泉地から見た綺麗な朝焼け空)

 

もう10年近く前のことだけど、城崎温泉へいったとき、真夜中、寝静まった温泉街を宿の縁側から見下ろして志賀直哉の「城崎にて」を読んだ。

1日じゅう続いた雨が上がったばかりで、真夜中の舗道は橙色に濡れていた。

「城崎にて」は、生死がテーマの作品だった。ドラマティックな展開や意味づけではなく、音のない、透徹した目線がかえって生命のダイナミズムを際立たせていて、筆致から立ち上る命の香りで胸がいっぱいになった。透明で美しい夜だった。

 

 

緊急事態宣言があけてしばらく経ち、関東の山間の温泉地にこもりにいった。

最寄駅から歩いて1時間ほどで、ものすごい静かな田舎だった。

雨が何度か降って止んで、網戸にした窓から濃い緑の香りが立ち込め、ずっと夏の虫と山鳥が鳴いていた。

真夜中の4時頃に目が覚めてお風呂に行こうと廊下を渡っていたら、中庭で物音がした。

大きなガマガエルが1匹、月の光に濡れて、縁側に這い上がろうとしているところだった。

その力強さと神々しさに思わず胸を打たれた。

部屋に帰っても月明かりに照らされたガマガエルの姿が目に焼き付いてなんだか眠れず、寝返りを打ちながら写真の朝焼けを見るに至るんだけれど、思いついてネットで調べたところによると、カエルのスピリチュアルメッセージは「前進せよ」だって。

 

はっ……!!!

と思えたら良かったんだがしかし、思い当たることがなにも無くて泣けた。

 

そういえば、この日は季節外れの変わったトンボも見たんだった。それも気になってトンボのメッセージも検索したら、それも「前進せよ」だった。

どーいうこと!!!!!

(ま、こういうのは無理やりこじつけない方がいいのだ。内面を探っても何も出てこない時は放っておこう)

 

と、ここまで下書きして放置していたら、次のスピリチュアル講座の宿題が「サインについて」だった。スピの宿題について、私は何者かにサポートされている。夏休みの最終日に自由研究を代わりにやってくれるオカンみたいな奴がちかくにいて、私がウダウダしていてもちゃんとネタを運んでくるようになっている。ありがとう!ついでに愛のある職場もください!(は?)

 

なので勢いでこのままサイン、メッセージ、虫の知らせの類について今日は書きます。

じつは私、スピリチュアルのスの字も知らない時代から、いわゆるシンクロとか引き寄せとか虫の知らせとかが頻繁に起こるタイプだった。子供の頃からそうで、とくにシンクロと引き寄せが起こりまくるもんだから「これは一体なんという名前の現象なんだろう」と思って、親に聞いた記憶がある。当然ながら「知らん」とか言われたんだろうけど。っていうか昭和30年代生まれの田舎育ち田舎暮らしの親が、「それはシンクロニシティと言うのや」などと語り始めたら、それはそれでどうなってんだよって話だけど。

 20歳頃までは、飼っていた猫が事故で死ぬときは、前の日に猫が事故で死ぬ夢をそのまんま見たり、離れて暮らす母の体調が悪いときは分かったり(これはけっこう今でもわかる)そういうのってわりと普通だったのに、社会人になって「世間の常識」で自分を矯正しようとしたあたりからめっきり少なくなって、スピ開眼した最近またちょっと増えてきた。

 でやっぱり、私は夢に見ることが多い。

最近は、久々に連絡をくれる人が夢に出ることがよくある。私が想念を送って相手が私のことを思い出すのか、相手の想念によって私が夢を見るのかはわからない。でもばっちり明晰な夢を見て、「これは連絡がくるな!」と思っても何にも起こらないときもあるから気まぐれなものである。

「虫の知らせ」ってネガティブなイメージだからあんまり嬉しくないけど、ポジティブな意味のサインは見えない誰かと遊んでいるみたいで楽しくなる。

 

今日はライトな記事ですね!

 

そういえば先日、ブックオフで何となく手にとって買ってみた「オープニングトゥチャネル」というチャネリングの教科書をいま読んでいて、ガイドと繋がる練習をしている。夫に知られたら「黒ミサ」とか言われるんだろうからこっそりやってたら密教みたいになってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ネガティブ暴走族

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ネガティブな妄想を思考で焚きつけてどんどん不安になって視界をギュンギュンに狭めて、自分自身をどこか冷たくて遠いところに置いてけぼりにして地に足がついてないような嫌な状態に私はけっこうなりがちなんだけれど、最近またそういうことが多くて疲れる。

心地よいあり方を知ってしまっただけに、こんな状態に自分を追い込んでしまうことを不憫に思うようになった。昔は、自分自身を哀れむこともできなかった。

どれだけぐったり疲弊しても、それでもまだ自分を責めていた。自分に同情するって悪だと思っていた。

 

不安の原因っていうのは妄想だ。

そして不安の感情そのものは、私のなかに昔からあるものなのかもしれなかった。

原因(と思っているもの)はあくまで不安を表面化させるために思考が引っ張ってきたもっともらしい材料に過ぎなくて、だからその証拠に、不安になることを探そうと思えば次から次へと見つかる。

そして、原因(材料認定されたもの)と感情をわけて考えた時、私を不安に追い込んでいると思っているものは冷静になればなるほど、人生においてはかなりどうでもいいものだったりする。仕事のこととかさ。べつに私の仕事で死人が出るとか、誰かの資産を全部溶かすとか、そんなことって断じてないわけで。

 

小さな事で不安になってしまう自分のルーツがどこにあるのかよくわからない。

人からの評価と自己評価をいまだに同一視しているのかもしれないし、居場所がなくなるのが怖いのかもしれないし、しっかり自分の人生を生きている実感が足りないのかもしれない。

 

20代のときは、感情と原因のトリックがわからなくて、とにかく不安になる要素をしらみつぶしに無くそうとしていた。

でも、原因→不安じゃなくて不安→原因である以上、当然それは不可能なわけで。不安があるから原因を引っ張ってくるって発想が無かったものだから、不安の原因を作ってしまう(無くせない)自分をダメな人間だと責めて(可哀想に!)、苦しくて毎日思考を働かせないために酒に逃げる日々。

いまはお酒にも逃げないから、やっぱりちょっとずつでも成長しているものだな。

 

「自分への愛をいちばんに生きる」って決めたけど、それには恐れと向き合う勇気が必要だ。

 

誰かに媚びなくたって、反対に周りをシャットアウトして自分の世界に閉じこもらなくたって、柔らかく自分を守ってゆくことで、ほどよい自利と他利のバランスをキープできるようになるにはそれなりの強さがいる。

 

というわけで、最近の小テーマは「不安への対処法」な昨今。実験実験実験!

 

 

 

 

 

感情教育なき国について

 

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最近思ったことだけれど、人って言い方には気をつけるけど受け取り方にはなかなか気をつけられないものだよね。

自分が発信者の時は、意見を押し付けない、「ひとそれぞれ」を重んじる、とか、社会経験のある大人ならわりとできてると思うんだけど、自分が受け取る側になった途端、自分の投影、思い込みをガンガンくっつけて受け取って、傷ついたり怒ったりしてしまう。

リアルな対人関係で人に対してものを言う時は乱暴な言葉を使わないし、ゼロにはならなくてもなるべく偏見の無い発言をするようにするし、いろいろと相手に配慮するんだけども、自分に対しては乱暴で偏見まみれの受け取り方をして、勝手に責められたような気がして被害者になって、そして相手を加害者にしてしまう。(でその愚痴がネットに向かうことも多い)

そういうことはわりとよくあると思う。私もある。ネットには書かないけど。

 

 

見える世界のことばかりに重きを置く(ここで言えば外面を整えること)とか、

他人には折り目正しく、自分には雑に接してもよいとか、

そういう不思議な価値観が染みついているので、「自分の心の扱い方」に関してものすごく適当に捉えられてきたんだと思う。

 

だから、教育も施されなければ、ちゃんと考える機会も与えられず大人になってしまうので、その点まったくをもって私たち現代人は洗練されていない。知識もマナーもスキルも身に付けて、社会人として立派になっていても、自分の心の取り扱いに関してはずっと未熟なまま。

人を傷つけてはなりませんとか、差別してはなりませんとかは教えるけど、なぜ人は人を傷つけてしまうのか、差別してしまうのか、あるいは自分の心の守り方っていうところに視点を向けるような教育コンテンツってないですよね。

 

自分と向き合うこと、心と向き合うこと。

「ちゃんとした大人」に条件があるとして、そこには残念ながら上記のことは含まれておらず、自分と向き合っているとか、心の声をきちんと聞いているとかは二の次三の次もいいところで、なんなら、そんなものは暇人がやることと思われている節すらある。

 

改めて、教育っていうのは、国民ひとりひとりの人生を幸せに導くために行うものではなくて、役に立つ社会のパーツを作るために行われているわけだ。

 

だけれど、凶悪事件とか、人をひどく傷つけてしまうとか、社会的にもネガティブな出来事の根底には、個人の内面の破綻が必ずある。

 

インターネットで誰かを誹謗中傷する人は、怒りや嫉妬のルーツと向き合って自分を癒していけば、誰かにそれをぶつけずに済んだかもしれない。

そして、辛いことだけれど、誹謗中傷を受けて心を傷つけられる人もまた、人から責められる前に自分自身を責める気持ちが内面にあったのかもしれない。

 

 日本人はとくに大人しくて、表だってはあまり揉めたりしないけれど、ネット世界に足を踏み入れれば、信じられないくらい汚い言葉で溢れているわけで。

朝の満員電車でソーシャルディスタンスがゼロどころかマイナスの時代、Twitterの画面丸見えのまま(本当に目の前にくるから嫌でも視界に入る)「前の奴の鞄が迷惑なんだよゴミが」「混んだレジで小銭出そうとする奴は死んでほしい」みたいなことを書き込んでる人を見かけたことは一度や二度ではなく、しかも例外なくめっちゃ真面目そうな人なわけよ。多分会社ではそんな言葉遣いもしないんだろうし、ちゃんと「人を慮って」コミュニケーションしてるんだろう。会社では。

それはいまの道徳とかモラルとかの共通認識が社会の表面は整えても個人を救ってないってことの表れだと思うから。

自粛警察にしても、ネットの誹謗中傷にしても、人をジャッジする、バッシングするっていう「ドラッグ」が必要なくらい要するに自分自身と人生に不全感が溜まっているんだと思うから。

社会に変化を求めても構造から変えるのはしばらくは無理だと思うので、個人個人が自分の内面と上手につきあう作法を身につけてゆかなくてはね。そんなふうに思います。

 

 

 

今日東京駅に天使がいたと思います(東京都・35歳女性)

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(ぐっはー温泉行きたい………!!!!!)

 

 

帰宅途中、東京駅で乗り換えのためにエスカレーターをくだっていたら、突如世界が別物のように私から離れてみえた。

いつも通る、馴染んだホーム、広い階段、床のツルツルした大理石のマーブル模様、ポスター、柱、案内板、構内放送、その空間のすべてが、どこか遠いところからいま突然目の前にやってきたような解像度で迫って、そのなかにいる自分の存在をとても奇跡的なもののように思えた。

いまここにある命は大河の一滴のようだ。

大きな河の流れから零れた水滴ようにこの世界にやってきて、そしてまた同じ河に戻ってゆくのなら、二度と戻らないこの瞬間の尊さたるやなんだ。なんて尊くて、壮大なタペストリーの中に私たちは生きているんだろう。同じ空間にいるすべての人々がひとつの大河から零れ落ちた一滴一滴であり、自覚をしているかしていないか、そして人格や生き方の個別差を超えて絶対的な魂の根源を共有していて、そして別々の人間として生きながら等しく尊い瞬間にいる。

 

そんなことを、感じたというより、突然頭にバコーンと入ってきて、そしてなんとも言えない幸せな気分になった。

これはたまにあるスピリチュアルのぶっこみシリーズだ。東京駅は波動が合うのか、たまにこういうものが降ってくる。誰かが何かを教えようとしてくれているのかなーなんつって私はその存在に感謝したりするんだけども、こういうのって、信じない人からすれば「頭おかしい案件」になるのかもしれない。なんかニューロティックな世界観というふうに、引いた目で見られたりするかもね。少し前の私のように。

 

これもスピあるあるだと思うけど、「参考書」の読破に一生懸命になるあまり、頭であれこれ考えすぎて直感にフィルターがかかることがある。

でも、内面を見つめてゆくにつれ、直感、感覚、ハート、などと自分で思い込んでいるものの多くも、じつは思考で成り立っているということはよくある。

そう考えたら、どれだけ本を読んで思考を積んでもびくともしない、山積みの意識の後ろから、自我を超越した閃きのようなものが突然立ち現れるとき、それが本物の魂の声なんじゃないかというふうに思った。